「初めて窯から出てきた作品を見た時、DNAが覚醒した」鈴木徹氏インタビュー
by 森一馬
燃えるような緑と言ったら稚拙な表現かもしれないが、鈴木徹氏の緑釉には、そのような表現が相応しいと感じる。氏がここ数年テーマにしている「萌生」を辞書で引くと「草木がもえ出ること。転じて、物事が起こり始まること。」と書かれている。まさしく萌え出る=燃えるようなエナジーを感じる作品を生み出す氏のバックグラウンドには、偉大な父への反骨心や、緑に対する深い愛、そして良い土との出会いからの萌生…新たな始まりがあった。
お父様が志野の人間国宝(鈴木藏先生)という環境で生まれ、どのような幼少期を過ごされたのですか?
三人兄弟の長男に生まれ、小さい頃は兄弟喧嘩ばかりしていたのを覚えています。父は放任主義とは全く逆で、口煩くいろいろと言う性格で、しかも喧嘩をするといつも長男の私だけ怒られるので、喧嘩ばかりして叱られた記憶が幼少期の思い出として強く残っています。
多治見という土地柄、やはり周りも大先生ばかりだったのでしょうか?
そうですね、実は祖父も釉薬の研究者で、荒川豊蔵さんが京都の宮永東山窯を任された時、祖父も一緒にそこで手伝っていたこともあったり。祖父が入院した時に荒川豊蔵さんが訪ねてきてくださって、私は子供ながらに豊蔵さんに強いオーラを感じたのを覚えています。
そういうバックグラウンドもあり、陶芸家になるという思いはあったのでしょうか?
父の手伝いをしたりする中で、漠然とそういう思いがあったのかもしれませんが、私の場合中学高校の頃の反抗期が強く、特に高校の頃は家から出たくて仕方なかったです。お恥ずかしい話ですが、ハードロックに没頭し、ギターばかり弾いていました。また歴史が好きで興味があったので、大学は歴史学科に進学し、博物館の学芸員を目指していました。
全く別の道を志しておられたのですね。
はい、しかしなにかの巡り合わせなのかもしれないのですが、当時の大学の先生が、陶芸が好きな方で、当然私の父のこともよく知っているわけです。将来の話をした時に、私は学芸員の資格も取っているため当然学芸員になりたいと言ったのですが、「陶芸やらなきゃ駄目だよ」と言われてしまい(笑)。
えー、大学の恩師に!?いきなりですか?
はい(笑)何を根拠にとの思いもありましたが、京都の陶芸の訓練校(京都府立陶工職業訓練校)を勧められ、言われるがまま見学に行きました。訓練校ということなので、若い人ばかりかと思いきや、そこでは老若男女様々な方がそこで学ばれており、ちょっと面白そうだな、なんとなく1年ぐらいここで遊んでみようかというぐらいの感じで、そちらに通い始めました。
そこから陶芸に入ったのですね。
最初は湯呑みみたいなものを作るのですが、土を練って轆轤引いて、一生懸命やり、楽しいと言うより大変だなと思った記憶があります。しかし、それで完成して初めて窯から出てきたものを見た時、雷に打たれたような衝撃を受けたのです。あの時の衝撃は今なお忘れることが出来ません。DNAが覚醒した、そう自分で確信した瞬間でした。
そんなに衝撃的だったのですね。
嘘のような話ですが、本当にそう言い表すしか表現出来ないほどの衝撃でした。窯から出て来る前までは、周りにいる私と同じような環境で育った訓練生達とも「ここに来てみたけどいつまで陶芸やるかわからない」といったような話をしていたのですが、窯から出てきた作品を見た時は、周りのみんなも私と同じような顔をしているんですね(笑)みなさん同じようにDNAが覚醒しているようだった。私もその瞬間明確に「自分はこの道入らなきゃ損だな」と考えが変わりました。敷かれていたレールから敢えてはみ出していたものを、ようやくそこにポンと乗った感じと言いますか。
そこが分岐点となって陶芸をしようと決めたのですね。
そうです。それから1年後多治見に戻り、反抗しまくっていた親父に頭下げて、やらせてくださいと。まさかそんなことになるとは、高校時代の自分からは想像も出来なかったです。あれだけ喧嘩をしていた親父に頭を下げるなんて、と。
それほど京都の経験が衝撃的だったということですね。それからはお父様とも仲良くやれたのですか?
もちろんその後も親父とは何度も衝突しながらどうにかやってきました。自分の息子だから言いたいことも言ってきますし、喧嘩して机をひっくり返して出ていったこともありました(笑)
そんなに修羅場だったんですね(笑)最初はどのような作品を作っていらっしゃったのですか?
最初は伝統工芸展に出品することを目標に色々なものを作り、また京都の訓練校時代の仲間とグループ展をしたり。そうこうしているうちに銀座の老舗ギャラリーから声がかかり、そこから個展などもするようになりました。
作風としてはその当時すでに緑釉中心の作品構成だったのですか?
はい、とにかく緑が好きだったということもあるのですが、訓練校時代に京都の近代美術館で、岡部嶺男さんの織部大鉢を見た時にものすごく感動し、いざ自分がやるときはそういったものを造りたいと思っていました。そしたら多治見に戻ってきた時ちょうど緑釉の釉薬があって、それから緑釉を作るようになりました。
それが現在の三彩につながってくるのですね。
はい、ここ最近は萌生というテーマで、木が芽吹く時の瑞々しさや力強さを表現しようと試みていたのですが、その中でたどり着いたのが三彩でした。ちょうどその頃面白い土に出会い、茶碗を造るのが面白くなってきたんですね。
土を変えたということですか?
そうです、全く新しい土に変えました。その土が釉薬との組み合わせが非常に良く、色の出方なども全く違い、この土で緑釉だけでなく何か新しいものを取り入れたいと思い、色々と試行錯誤してできたものが三彩でした。
同じ桃山陶を追求する中でお父様と全く違う作風でこのような独自の作品を作り上げるまでには、そのような背景があったのですね。
私がこの世界に入った時、父はすでに人気も知名度もありましたから、二世として同じようなものを作ったらそれなりに脚光は浴びたのでしょうが、それだけは絶対にやってはいけないと思っていましたし、今でもそういう気持ちがあります。二世として始めるからには、少しでも違うことをやらなくてはと思ってきた気持ちが、今の作風につながったのだと思います。
私は陶芸の世界から来た人間ではないので、失礼ながら最初は鈴木徹先生が鈴木藏先生の息子さんだということすら知らずに、先入観無しに徹先生の作品を見て、すぐに連絡させていただきました。
逆にそういった陶芸や父のことを全く知らない、しかもファッションの世界か来たという方から良いと言っていただけるのは本当に嬉しく思います。最初ご連絡いただいた時は本当かな?と疑ったほどです(笑)
最初に青竹をそのまま写したかのような美しい作品を見てすぐに連絡させていただきました。その後三彩作品を拝見し、その色合いや造形に感激しました。ダイナミックな造形にお父様からの影響を少なからず感じるのですが、その辺りご自身では意識されておりますでしょうか?
むしろ先程述べたようなことにならないよう、逆に影響が出ていると言われないように意識することはあるのですが(笑)。とは言いましても小さい頃からずっと父の作品に囲まれて育ってきましたので、影響が無いというと嘘になると思います。手伝ったりもしていたわけですし。自分では違うと思っていても、私の作品を見ていただいた方から「お父さんの作品に通ずるものがあるね」と言われることもあります。
志野と緑釉では窯ももちろん違いますよね。
はい、窯も違いますし製作工程などは全く別なので、影響があるとしたらどこか自分でもわからない深い部分なのだと思います。
こちらの三彩の茶盌を見ると、濃淡のしっかりと出た三層の色合いに、ダイナミックな造形、見込みの貫入、二重高台、そして茶溜まり部分は光が当たるとまるで木星のように輝いて見えます。「茶盌の中にジュピターがある」などとお茶友人と騒いでいました。その木星の周りのゆず肌がこれまた光の角度で星のように見え、まさに茶室へ持ち込んだら宇宙を感じられる作品であると想像していたのですが、このような私が感じる見所は、意図して作り込まれているのでしょうか?
そのように評価していただきとても嬉しいです。これも当然こうなったら良いという理想はありますが、先程話したよう新しい土と釉薬の組み合わせが凄く良く、それによってもたらされた部分が大きいです。茶溜まりのラスターっぽい虹彩などは、ちょうど調子良く釉薬が流れて来ると織りなされるもので、お渡しした茶碗はまさにそのように釉薬が流れ溜まり、調子よく色が出ました。こういった調子良く色が出るものを毎回目指してはいますが、やはり釉薬の流れや自然の力でそううまく行かない時もあります。高台はこの作品は二重高台ですが、作品によって高台が力強く見えるよう、削りを変えています。
高台を見ると土が凄く柔らかく感じます。
はい、素早く削るとそれだけ迫力が出るのですが、今の土はそういう意味でも茶碗を作るのに適した土だと感じています。
最後に、作品をお持ちの方にどのように楽しんでもらいたいですか?
やはり私は、作品は使っていただきたいです。茶碗やぐい呑などは使うことで色や風合いが変わっていくんですね。その辺りを楽しんでもらいたいと思います。時々知り合いの家に遊びに行ったら、何年も前の作品を「こんな風に変わったよ」と見せてもらえることがあります。陶芸家にとって、そういう時が最も嬉しいと感じます。使って変化を楽しんでいただきながら育てていってもらえたら嬉しいです。
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筆者が最初に購入した鈴木徹先生の作品は三彩のぐい呑。あまりに気に入ってしまい、初めてぐい呑用の仕覆まで作ってしまった作品だ。見るものを一瞬で引き込む、まさしく萌え出るような深い緑の裏には、偉大な父への反骨心から始まり、京都での覚醒、そして最終的に全てを認め受け入れ、父と同じ陶芸の道に進んだ作家の稀有な生い立ちがもたらしたストーリーがある。インタビューを行っている間、応接室から見える工房のほうでは、米寿を迎える御大がエネルギッシュに作陶に励まれている。「もうそろそろ大人しくして欲しいんですけど、全くそういうわけにはいかないんですよ」と呆れ顔の徹先生は、どこか嬉しそうだ。最も偉大なライバルが、最も近くにいる、そのような環境下で、自ら切り開き辿り着いた徹先生の独自な作風や色からは、まさに父のオルタナティブにはならないという強い主張を感じる。新しい土に出会い、さらなる作域へ踏み出した鈴木徹先生の今は、まさに萌生の時なのかもしれない。