ぽっくり逝くまで陶芸していたい ~光藤佐インタビュー~
by 森一馬初めてインスタグラムで見た光藤佐氏の作品は赤絵の鉢だった。シャープな造形に、一軒飾り気ないようでどこか優しげな漢詩が赤絵で描かれた鉢が美しく、すかさずプロフィールをチェックしたら、個展スケジュールがみっちり。インスタグラムで見られるどの写真もとてもセンスが良く、作品も高麗から美濃唐津まで幅広い。これは人気が無いわけがない。そして全ての作品に共通して感じるのは、作品の内側から滲み出るような優しさ。シャープなのに柔らかくて優しく、深みのある作品にみるみるうちに惹かれ、誘われるように兵庫県の朝来市へ。やはりセンスの良いお洒落なご自宅の心地よいリビングルームで、話を聞いてきた。
(流れている音楽を聴きながら)ジャズお好きなんですか?
ジャズもクラシックも好きやね、詳しくはないんですけど。朝はクラシックが一番しっくりきますね。
子供の頃からものづくりには興味があったんですか?
そうやね、小学生のころから絵画教室通って、中学時代はもう、高校生が大学受験のために通うような教室に行ってましたね。絵描いたり、粘土したり、そういうことが好きで、中学出たら京都の訓練校(京都府立陶工職業訓練校)いうとこに進んで。
15歳で陶芸に進もうと思ったんですか!?
うん、今でも覚えてるのは、僕は宝塚出身で、宝塚言うたら大阪のベットタウン、サラリーマンの街で。大人になったら誰もがサラリーマンなるのが当たり前やと思ってたときにたまたま、焼き物作って、それを生業にしてる人がいるってことをどこかで知って。
陶芸というより、会社員じゃない生き方に憧れたわけですか?
ネクタイ締めずに生きる生き方があるんやって。それを小学生で知って、そういう大人になる道があるってことに憧れて。
それで訓練校に行かれたわけですね。
2年間、昼間は訓練校行きながら定時制の高校通って、その後の2年は京都の窯元に入って、それで夜は高校。定時制やから4年通ったら高校卒業もできて。
その後はそのまま窯元に?
いや、京都精華大学に進みました。
進学されるんですね。なぜ急に?
訓練校で2年間轆轤やって、その後2年窯元で轆轤。そのまま職人として進んで行くって選択肢もあったんやろうけど、せっかく高校も卒業したし大学も行けるって考えたら、もう少し絵の勉強もしたいなと。というのも、窯元での仕事が、子供心に思ってた焼き物とか陶芸というものじゃなくて、少し職人気質が強かったんやね。今考えたらその選択あっての今やって思うんやけど、当時はまだ若かったから、ラジオ聞きながら轆轤回してる毎日より、少しクリエイティブになりたいと思ったのもあって。元々中学でも絵をやってたのもあって、もう一回ちゃんと絵を学びたいなと。
それで京都精華大学の絵画科に?
いや、デザイン学科の漫画科に。
漫画科ですか?なぜ?
佐川美代太郎という漫画家の先生がおって、その方の線描が好きやったんで、その先生を追っかけてそこに入りました。プロの漫画家で初めて大学の先生になった方で。
そういうことなんですね。漫画科ではやはり漫画を学ぶんですか?
いや、実務はほとんどクロッキー。とにかくクロッキーなんやけど、学問としては西洋絵画を、特にセザンヌ以降の絵画史を学んで。
おお!そうなんですね、僕セザンヌの墓行ったことありますよ。
ほんとに?僕もアトリエ行ったことあって、プロヴァンスの。
ええー!僕も行きました笑 凄い!
森さん、絵やってはったの?
いえ、大学のときにMOMA展を見てセザンヌに狂ってしまって、国内のセザンヌ見尽くして、これはもうフランス行くしか無いと、エクスまで行きました笑
凄いなぁ、僕らはそのセザンヌの凄さを、佐川先生から学んで知ったのに。
やっぱりセザンヌ凄いですよね。
セザンヌが全てのターニングポイントなのは間違いないし、僕はセザンヌを尊敬してる。それまでの絵画の、ある風景の一部を切り取るってものじゃなくて、絵の中で全て完結させるっていうね。あれがなかったら僕の大好きなピカソも無いわけで。
そういうことを漫画科で学ぶんですか?
まさに学問のほうはそればっかり教えてもらって。逆に学ばんかったらピカソの凄さとかセザンヌの凄さとか、自分の物差しで分からなかった。世間の物差しで、ピカソが凄いって言われるから凄いんやと思ってたけど、佐川先生のゼミを卒業する頃には、ピカソ見て、あぁこれはほんまに凄いんやって、自分の物差しでわかるようになった。その代わり絵の具とか他のこと何一つ学ばんかった笑。
4年間クロッキーと学問だけですか?
ほとんどそう、俺らの学費ってなんやったんやろうなってみんなで言ってたけど、それでも僕にとっては物凄い意味がある4年やと感じた。
漫画科と聞いてそういったイメージは全く無いですよね。佐川先生が特別だったんでしょうね。そして光藤先生はピカソも大好きなんですね。
大好きですよ。僕はピカソのキュビズムから影響されて、エジプトの壁画なんかも好きなんやけど、色々学んで行くとピカソは黒人彫刻とかプリミティブアートに物凄い影響受けてて。顔が横向いて身体が正面向いてみたいないわゆるあのキュビズムって、実はエジプトの壁画から来てるんじゃないかと思う。ヨーロッパの美術館でエジプトの壁画見た時、あぁこれ間違いないわと思った。
それは気づかなかったですけど、たしかにエジプトの絵って目だけ正面見てたり、視点が一箇所じゃない感じありますね。
ほんまに見た瞬間そう思った。色んな人がキュビズムについて色々言うけど、全部ここに答えあるやんて。あくまで僕の視点やけど。
こんな絵の話ができると思ってなかったので凄く嬉しいです。
日本では村上華岳とか大好きで。とにかく絵を学んだことは少しは今生かされてるんかなと思います。
(工房にはたくさんの書が飾られている)
大学卒業されて、焼き物に戻られるんですか?
卒業してからすぐロンドンに語学留学行って。まだ携帯もなにも無い時代に。
そうなんですね。
それでイギリスから色んな国行って。語学学校で出来たヨーロッパの友達のとこ遊びに行ったり。その時にさっき言うたセザンヌのアトリエも行ったんです。ユースホステル泊まって、鈍行やったらヨーロッパどこでも行けるチケットが当時あって。
あー、ありますね。僕もそれ使いました。
ただ大学時代に佐川先生に色々学んで吸収して、早く働きたくなって、1年ぐらいで帰国して。そんで仲良かった訓練校時代の先生に何かないか言うたら、京都の料亭で自分とこで使う器作ってる工場をもってるとこがあって。今では考えられんよね、バブルの頃。
凄いですね、まさにバブリーな話。
そこが窯一つ任せてくれて。轆轤だけでなく釉薬から窯から、全部任されて。それで働きながら、そこの若い料理人の仕事見てたら、今度料理にも興味が沸いてきて。それで予約制の懐石料理の店でも働いて、料理の勉強もして。
めちゃくちゃハード。それまだ20代前半の話ですよね?
23,24の頃。そういえば京都の訓練校の講師もそのころしたりして(※後から知りましたが、当店で扱わせていただいている鈴木徹先生が訓練校生時代、光藤先生から教わっていたそうです!)確かにハードやったね。あと常滑に臨時で轆轤しに行ったり。
愛知の常滑ですか?
うん、当時常滑焼復興で、常滑市が窯作ったり色々投資して、そこに引退した伝統工芸士の陶芸家とか呼んで色々作らせて。その時に轆轤がおらへん言うことで声かけてもらって。良い待遇で、宿も飯もつく感じやったんやけど、初日に鯉江さんに会っちゃって。
鯉江良二さん?
そう、初対面やのに「どこ泊まってんの、遊びにおいでや」って言われて。知らんかったし、めんどくさいおっさんやな思って。そしたら晩にほんまに宿に電話かかってきて、呼ばれたとこ行ったらそのへんの家全部鯉江や。どの家やって(笑)
(爆笑)
ちょうど鯉江さんが海外で大きな賞取った後で、有名になってきたころやったんやけど、ほんまに会ったばかりの僕らみたいな何者かわからん若者もおいでおいでで面倒見てくれて、抱きかかえてくれた。
そんな思い出があるんですね。結構遊びに行ったりされたんですか?
しょっちゅう遊びに行ってご馳走になって、飯と酒と。ほんまに凄い人やったよ。
素敵な思い出ですね。そんなこんなで色々経験されて、その数年経ってから独立ですか?
27のとき、兵庫の明延鉱山という鉱山が閉山して。閉山と同時に人がいなくなるからその周りの炭鉱町の箱物が全部空くんやけど、その当時の町長さんが焼き物が好きで。空いてる保育所跡に誰か陶芸家に来てもらって、村おこしの一つにするっていう計画があって。最初に瀬戸の陶芸家さんが入って、窯とか全部作られた状態で出ていかれて。そこからずーっと空いた状態で誰も入らなくて、僕に話が来て。賃貸で好きに使わせてもらえるという条件でそこに入って。結局そこに15年おって、その後ここに築窯しました。
へぇー、15年もいらしたんですね!最初はどうやって世の中に作品を出していったんですか?
最初は誰も僕を知らへんから、兵庫県の物産展とかそんな所に出していったりしてたんやけど、近くに木彫やってる人たちが、一緒にグループ展やらへんかって誘ってくれて。話聞いてみたらそれが新宿のギャラリーで。
いきなり新宿ですか?
いきなり東京やったから僕もびっくりやって。独立したときはいつか京都で展示会出来たらなぁぐらい思ってたのに、いきなり東京?って(笑)
凄いですね!最初はどんなものを作られていたんですか?
粉引とか灰釉とか作ってました。というのもね、自分がそれまで焼き物を見て、これいいなぁって思うものと、そう思わないものが何が違うのか、先輩らと話したり色々経験して気づいたのが、やっぱり自然のものを使うってことで。独立するまでは合成の釉薬やったり、人工的とか化学的とか、そういう安定して使いやすい、どう焼いても思い通りに行きやすいものを使ってたこともあり、でもそういうもので何か作った時に、心の底からええなぁって思うかどうかって言ったら、ちょっとそうではないなと気づいて。例えば夕焼けを見て綺麗やなあと思う、そういう気持ちになるものを焼き物に感じるときがあったんやけど、そう感じる作品は全部天然のもので出来てたってことに気づいた。それで灰釉とか粉引とか、全て自然由来のもので作られるものに憧れて、それを作ろうと。
確かに、いかに綺麗に夕焼けをスクリーンに映したって、実際の夕焼けにはかなわないですもんね。
そうそう、それと同じやと想います。人工的なものである程度のことはできても、心からええなぁって感動できるものは自然由来のものじゃないとできないと思ってます。穴窯から釉薬まで全部自然のものを借りて作る。できるものも自然のもの。だから当然思い通りにいかないこともあるけど、逆にええなぁって心から思えるものも出来るという。
まさに持続可能な循環ですね。光藤先生の作域は茶陶から食器まで非常に幅広いですが、作品に関してはやっぱり使ってもらいたいですか?
そうやね、酒器とか花器とかそういうものはまた別の考え方もあるんやけど、食器に関しては、やっぱり自分が曲がりなりにも料理に触れていたのもあって、料理を盛ったときに美しいと思えるような器であるべきやと思いますね。料理半分器半分っていいますが、僕はそう思ってて。もちろん飾って美しい器を作る人はそれもそれで素晴らしいし、それも正解なんやけど、僕はやっぱり使ってもらいたいし、料理を盛って美味しそうって、その部分を大事に思ってますね。
料理あっての器ですしね。
あくまで僕の考え方でね。やっぱり焼き物と一括に言っても、例えば陶器屋さんもタイル屋さんも焼き物やし、それぞれ土俵が違うわけで。飾って見て欲しいいうのも一つ、使って欲しいいうのも一つ、誰が上とか下とかじゃなくてね。色んなスタイルがあってそれも焼き物の面白さやね。
(インタビュー前には光藤先生の器を使っている朝来市の料亭に招待いただいた。先生仰るとおり、器と料理の素晴らしい融合。)
僕は最初食器もそうですが、光藤先生の志野に惹かれたんですよね。いわゆるゆず肌緋色の志野ではなく、全く違う雰囲気で。
その辺がね。やっぱり志野作るっていったらみんなそっちの方向で目指すと思うんですよ。だけどあまりに赤くするために必死になりすぎて、面白いとかいいなぁって思う場所が抜けてしまうんだったら、別に緋色にしなくても良いと思うんですよ。赤くすることが目的ではなくて、ええと思うものを作ったらええわけですから。
目的が逆になってると。
本末転倒というか、昔は僕も写すことに力を注いでた時期もあって、そういうの目指した時もあったけど、ある程度のとこまできたらアイドントノウでええと思うんやね。自分の好きなもの作って、ええと思うもの作ったらそれでいい。写すのが目標の人もそれでもちろんいいし、ただ僕は僕の好きに作ってるだけで。
光藤先生は15歳から陶芸初められてるので、最初に土に触れてからもう40年以上ですよね。それだけの経験があられて、まだ色々新しい発見っておありでしょうか?
そりゃありますよ。40年やってまだこんなもんしか作れんのかって思ったりもしますが(笑)面白いね、焼き物は。それが僕は助かる。それだけが助かる。一人で穴窯やって、年3回焚く、1年のうち3ヶ月は薪の準備やら穴窯の手入れやら、そんなので過ぎていって、窯入れだけで10日かかるしほんまに大変なんやけど、焼き物が面白いから大変と思わないんですよ。それがほんまに助かる。
良い話。やっぱり大変だけど次もやりたいって思うんですか?
そうそう、ひどい時は窯出ししてその翌日はよ次焚きたいって思うよね。次焚くまで一番遠い日やないですか。その日にはよ焚きたいって思う、それが一番辛い。今回こうなったから次こうしたらこうなるんちゃうかとか色々考えてしまって。結局薄い階段を少しずつ登っていってるわけやから、それが面白いんですよ焼き物は。これで出来たから終わりじゃなくて、エンドレスで、死ぬ時が終わりやから、そんでたまに面白いのが、3年5年前に作ったものが、その時は全くあかんと思ったのに、今になってこれええやんと思ったり(笑)
それは結構ありそうですよね。僕もある陶芸家の7年前の作品を買いつけて、先日即売れたってありました。
そうそう、積み重ねで少しずつ知識も見方も増えとるから、その時わからんかったことが今ええと感じたり。好きなもんも変わったりもするから、ほんまに面白い、焼き物は。
尊敬する陶芸家っていらっしゃるんですか?
尊敬と言うか、上手いなと思うのは、技術やったら2年ほど前に亡くなった村田亀水さん。あの人は上手いなぁ。あと唐津の西岡小十さんも好き。特に釉薬がいいなと思います。
光藤先生のインスタグラムは凄くオシャレでセンスが良いですよね。最初見たとき何てセンスの良い方なんだって思いました。光藤先生世代の陶芸家さんってSNSとか弱い印象があるんですが。
みんなやらんでも売れてるからちゃいます?(笑)
いやそんなことないですよ(笑)
確かに周りの陶芸家に、インスタなんかやってみたらって話しても、そこまでしてって人も多いです。僕はその点必死なんですよ。とにかく死ぬまでこれで行きたいって気持ちが強いから。
素晴らしい、カッコいい、僕も死ぬまで陶芸に携わっていたい。
いやほんとそうやね、70なっても80なってもこんなん作りたいとか、そういうことしか思ってないから。酒も健康のために止めたし、毎朝4時に起きて、最近膝痛めて休んでるけど、それまでは毎日ジョギングしてて。少しでも長く陶芸してたいんですよ、生きてる限り。ぽっくり逝くまで陶芸やっていたい。生きてて陶芸できんくなるのが一番辛いから、そのためには健康も大事。陶芸一日でも長くやって、少しでもええものを皆さんにお届け出来たらと考えてます。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
光藤先生のご自宅と工房は朝来市和田山の外れ、集落の中で最も山に近い場所に位置し、まさに山から降りてきた英気を真っ先に受け取れるような素晴らしい環境だが、同時にやはり自然の驚異は凄まじく、まさに私が伺う日の早朝に、裏庭の柿の木が熊によってバキバキに折られたようで、木には熊の爪痕がハッキリ残っていた。
その柿の木の目の前の工房で、先生は一人作陶を続けているわけで、自然災害に免疫なんて皆無な筆者なんかからすると、大丈夫か?と思わずいらぬ心配をしてしまうわけだが、インタビュー内でも先生が語った自然への拘り、釉薬も土も全て自然のものを使わないと、夕陽を見て綺麗と思うのと同じ感動を与えられる器は作れないという持論を聞くと、こういった場所でなければあのような作品は生み出せないと確信する。写真からも伝わっているだろう美しい紅葉や大自然が作品に深みと優しさを与えており、幅広い作風でありながらもその全てが、ある一定のリズムが刻まれているように統一されている。光藤先生の作品を見ていると、個性というものは出すものでなく、自然と出てくるものなんだなぁと心から感じる。陶芸を見るようになって、山や空などの風景が茶碗やぐい呑に見える現象が自分の中で常に起こっており、その度についにバグったかと思うのだが、良く良く考えると筆者のような都会に住むものが陶芸を求めるのは、普段生活する中で味わえない自然の美しさや脅威を作品の中から擬似的に見出している部分があるわけで。人ができる限り不自由なく暮らせる人工的な都会に暮らしながら、人間に必要な自然のエネルギーを、作家が触れる自然の脅威を通して作品から得ている、そういった側面があるなぁと、今まさに光藤先生の絵唐津鉢を眺めながら思っている。なので、動物や炎に天候、自然の脅威全てが作品の一部分であり、そういったものと戦いながら作陶し作品を生み続ける光藤先生に感謝し、我々は平地に暮らしながら、ありがたくその恩恵をお裾分けいただくと、そんなまさしくサスティナブルな関係が無意識の中で成り立っているから、我々は陶芸に永遠に惹かれ続けるのだろう、そんなことを思いながら帰途についた。