子供の頃の夢はサラリーマン~多治見の鬼才、若尾経氏インタビュー~
by 森一馬出自柄、陶器とは遠くない世界で育ったものの、長く音楽やファッションの世界に身を置き、特に興味を持って陶芸を見てきたわけではない筆者だが、そんな私でも若尾経氏の作品を初めて見たときには、これは他に世に存在しない唯一無二なものなのではないかと直感的に思った。一般的に知られている整った青磁とは一線を画する氏の青瓷、またいわゆる白磁や志野など白い器と言われて思い浮かぶものとはこれまた違う氏の象牙瓷、豪快なゆがみっぷり、豪快なかけっぷり、練り込み、二重貫入、そして独特のシェイプ。それが陶芸の聖地桃山のど真ん中で産み出されるというアンビバレント感。見どころたっぷりな作品を産み出し続ける若尾経氏に、話を聞いてきた。
お父様が若尾利貞さん(岐阜県重要無形文化財保持者)といった家系に育たれ、幼い頃から陶芸をやることに対して何か使命感のようなものはあったのでしょうか?
いや、選択肢の中で一番遠かったかもしれない。
え?そうなんですか?
小学校の卒業アルバムの将来の夢は「サラリーマン」て書いたから
爆笑、真逆じゃないですか
うちは何代も続く陶芸家系ではないし、継がなきゃいけないわけでもないし。あと子供の頃は、毎週土日になると周りのお爺ちゃん達(加藤唐九郎先生とか超巨匠の方々)とかギャラリーの人が商談のため工房に来るから、父親と遊んだ記憶もあまりなくて。個展が大体秋だったから夏休みも忙しいし、どこか連れて行ってもらえるとしたら画廊か美術館。デパートに連れて行ってもらっても、画廊の奥の応接室みたいなところで2時間とか、そういうのが普通だったんで、給料もらって土日休みっていうのが良いな、羨ましいなと思って。
そういうことなんですね。では中学高校とかその辺りで意識し始めたんですか?
いや、色々やりたいなとは思ってたけど、陶芸以外のことは(笑)。やんちゃもして高校は1年生の頭で中退して、時間あるからステンドグラスを習いに行ったら半年間習ったあと、なぜか講師をやる?と誘われて。しばらくステンドグラス教えたりしながら、やっぱり大学受験したいなって思い始めて。それで大検とって日本大学芸術学部の写真学科に入学して。
写真学科だったんですね。まだ陶芸は出てこない笑
大学時代は撮影スタジオでバイト漬けの毎日。終わるのが朝方なんて普通で、撮影スタジオに住んでたって感じでした。
それで大学卒業されて多治見に戻られたんですか?
そうそう、それで陶芸を始める。
なんで急にそうなるんですか(笑)
夢でサラリーマンて書いてたけど、良く良く考えたらそうやって生きていくように教えられてなかったのね。サラリーマンはあくまで「夢」だから、かなわないことだから夢だったって気づいた。
逆に!?みんなが出来ることなのに(笑)
そんなの無理!って。毎日通うって無理って(笑)
でも写真の道に進むことは考えなかったんですか?
写真って、立体のモノを二次元に落とし込むわけで、あくまでモノありきな世界。突き詰めるとそれが性に合わないって感じてね、これが撮りたいって思ってもそこにいらない電線があったら、その電線を取ってくれと言えないし。だったら全部思い通りになるモノ作っちゃったほうが早いと思って。それで戻って、オブジェを作ったり、そっちから入った。
今の茶盌や花器、酒器ではなく、オブジェが最初なんですね。
最初何年間はオブジェとか他のものを作ってたんだけど、青瓷はね、小山冨士夫さんが、僕が小さい頃は普通にフラフラ遊びに来るおじさんみたいな感じだったんだけど、小山さんは中国陶器専門で、祖父が持っていたうちの使っていない窯で作品を作ったりして、父がそれを手伝ったり。その時色々古い中国青磁を見せてもらったりして。その影響で父も中国陶器が好きで。オブジェを作ってた時は釉薬もない薄い作品を作ってたんだけど、昔から志野とかそういったものを見て育ってきたからか、いつからか釉薬かけたくなったのね。かけるなら分厚いのをかけたいし、でも志野は父がやってるし、実は姉もその当時少し織部とか黄瀬戸を作ってて。そんな中たまたま台北の故宮美術館行って、久しぶりに青磁を見た時に、やっぱりいいなと思って。それまでは陶芸やると思って見てたわけじゃなかったから、やる立場になって見てみたら良いなと思った。
それで初めたんですね。
それもこれ偶然なんだけど、日本に帰ってきたらたまたまよく知ってる原料屋さんが、色んな地域の長石をテストしてみてっていって大量にくれたのね。長石だけだと志野になっちゃうんだけど、石灰を少し混ぜて焼きのテストをしたら、一個二重貫入になってたのね。
え?たまたまですか?
たまたま。なんだ簡単じゃんと思って、それじゃ青瓷やるかって笑
そんな簡単に出るものなんですか?
いや、今から思えば出会い頭の事故みたいなもの。そこからが大変だったんだけど。最初の最初にできちゃったから、簡単だと思ってやろうと思ったら、これが出来ない。出る時は出るけど、何かの都合で急に出なくなったり。土変わっちゃったら急に貫入しなくなるなんて当たり前だし。
釉薬の原料が同じでも出なくなることもあるんですか?
原料屋が同じって言っても違うことがあるって言うと説明が難しいんだけど、量産型の陶器を作ってる人から見ると同じと言えるんだけど、僕らは変な温度で変な焼き方してるわけで、そういう視点で見ると違うってことがあって。
同じ型番のサッカーボールですって言われても、プロ選手から見たら微妙に縫い目が違って蹴りにくいとかそういうレベルの話ですね。
そうそう、普通の温度で普通に焼く人にとっては同じ釉薬なんだけど、志野みたいに100時間ぐらい還元かける使い方をすると明らかに違うと分かるとかね。原料屋も二重貫入出す前提で釉薬を調合してるわけなんて無いから。
そうすると同じ薬を欲しいといっても違うことがあると。
場合によっては同じ長石で同じロットでも、その最初と最後で全然違うということもある。混ぜる場所で違ったりもするわけで。色合いとか出すのはなんとかなったりしても、貫入の具合までくるとそういった違いで出なかったり。
それぐらいタイミングによって出なかったりするものなんですね。そうするとこういった磁器と陶器を混ぜたも(こちらの作風は青瓷ではなく青磁と表記)のだと更にデリケートになってくるんですか?
この手はまだ初めて1年も経ってないから、世の中にもまだほとんど出てないんだけど、元々青瓷(陶器)で練り込み作ったり磁器でも作ったりもして、両方あるから混ぜちゃうかと。で、やってみたら釉薬が流れて大変で。
流れるっていうのは、磁器の部分だけ早く流れるということですか?
そうそう、磁器の部分が早く溶けるから、早く流れる。その分模様がはっきりして綺麗に見えるというのもあるんだけど、割れたり流れたりとにかく思い通りにいかない。
それをいきなり得体の知れないの僕が作ってくれと言ったわけですね笑
ただものすごく美しく造っていただき有り難い限りです。桃山陶の中には黄瀬戸とか織部とか、スタンダードを中心に作る方もいらっしゃいますが、先生の作品は独自性が強いですね。でも桃山陶も青瓷と同じく中国の影響はありますしね。
黄瀬戸も元をたどれば長沙窯とか華南のものに近かったり、中国の影響があるものだし、志野なんかも当時中国で白磁が流行ってて、日本で白いものを作らせたかったわけでしょ。
井戸を萩で作らせたような、写しの要素はありますよね。
黄瀬戸なんてあまりにも決まりすぎてて。少し変えると色同じでも黄瀬戸にならないでしょう?あの形あの柄以外のものを作ったら、同じ焼き方でも別物になっちゃう。
確かにそうですね。でも織部なんかは幅広いイメージですが。
織部なんかは逆に思うのは、織部って別に緑の釉薬のことを呼ぶわけじゃなくて、意匠的な意味というか、織部という様式のことを指すわけで。コピーしてる時点で本当の意味での織部じゃない。あとこの時代ならハチャメチャなオブジェとか作ったほうが本当の意味での織部なんだろうなと思う。歪んでて色飛んでて変な形してるから織部なのに、今はそういう作品が少なくて、大人しくてキッチリしちゃってる。それって織部なのかなと思う。
織部は驚かせてなんぼみたいなところが古田織部様式ですよね。歪んでいるといえば若尾先生の象牙瓷は非常に歪んでいる
性格が歪んでるからっていつも説明してるけどね。
なるほど(笑)
象牙瓷はいつから初めたのですか?
この手は以外に早くて、初個展の時にはもう作ってたので。ただ点数はそれほどあるわけじゃなく、でもずっと作り続けてる。
象牙瓷はまさしく唯一無二の作風だと思うのですが、どのようにして誕生したのでしょうか?
実はこれも偶然、釉薬をテストしてたときに配合を間違えてこんな色のものが出きちゃって。それから数年は作品として用いたわけじゃないんだけど、初個展のときに茶盌を作ってと言われて。なんか無いかなと考えてたら、ふと思い出して、これ面白いかもって作ってみたら、意外とうまくいって。
そうなんですね、でもそこで思い出すのがまさしくアイデアだと思います。象牙瓷という呼び方が言い得て妙な感じがしますが、唯一オリジナルな名前のある手ですよね。これはご自身で付けれたのですか?
名前なんて自分で付けるのは唐九郎さんぐらいでしょ(笑)実は象牙瓷は三輪龍氣生 (十二代休雪)さんに付けてもらったんだけど、龍氣生さんが父の個展に見えた時に、父がガス窯で志野を焼いているのを知って、ちょっと見せてくれとうちまで来られて。ちょうど色々と取り入れたい頃だったらしく、そのまま泊まって翌日また来られたりして。その後帰り際に、色々質問があるから帰ったら電話すると言って帰られたんだけど、本当に数日後にFAXが何十枚も届いて(笑)FAXが壊れたのかと思って焦っていたら、更に電話がかかってきて、4時間ぐらいずーっと質問攻めで(笑)
凄い、凄いとしか言いようがない(笑)
その時質問に答えたからじゃないけど、龍氣生さんが象牙瓷を気に入ってくださって、これ良いな、オリジナルなのに名前が無いのかと仰ってたので、名前をつけてくださいと言ったら、数日後また一枚FAXが送られてきて、そこに一言「象牙瓷」って書いてあった(笑)
漫画の世界の話みたいですね(笑)でも龍氣生先生の情熱もものすごい。
象牙瓷は素地が見えている場所が象牙色とのコントラスとで良い景色になっています。
これもね、実は象牙瓷は気泡が出やすくて、空気が抜けるように指跡をつけたりして、それが造形になっていって。実は意外と苦肉の策で初めたことが、やってみたらこっちのほうがいいなってことがほとんどで。素地を見せたらそこに金箔貼れるじゃんとか。
こう造りたいという理想あがって、そこに近づけるため色々策を変えながら、それが新たな景色になるみたいな
そういうのがほとんどだったりする。いかにそれが自然に見えるか。辺に目立たせちゃうと気持ち悪くなったりするから、そこに自分でもかなり気を配ってると思う。
それがこの美しい造形美を生み出すんですね。お父様の影響もあるのでしょうか?
小さい頃から見てるから、無いとは言えないけど、今は父とはほんとに、ロシア風に言うと同志みたいな関係で。あんまりお互いの作品について多くは語らないけど、それいいねとかそういう感じかな。
先生の造られている青瓷や象牙瓷の作品は自然の力が必ず影響すると思うのですが、窯に入れて出てくる作品は、どの程度自分の思い通りになると思いますか?
僕らがやれることって、ほんとに窯入れる前までで、いくら化学的にこうだからと分析してやっても、焼いて出てきたものは全然イメージと違ったりもする。実際化学なんてほとんどは実は解明されてないことばかりで、本なんか読んでも「こうなるだろう」としか書かれてないんだよね。なので半分は自然の力、できて7割、7割自分の思い通りに出来れば全然オッケーだと思ってる。ただそれが思わぬ良い方向に行くときもあるから面白いんだけどね。全く違う方向に向かって1周回って良くなったりとか、そういうこともある。
作品や造形から現代アート的な感性を凄く感じますが、ご本人はそのような感覚はありますか?
意識はしてないけど、いたずら的というか、脅かしてやろうみたいな感じはある。無いものを造りたいとは思ってるし、そうじゃなきゃ青瓷なんてやらないで写しやそういうものをやっていただろうし。あといたずら的という意味では、何年か経たないとわからないような仕掛けみたいなのを仕込むときもある。金箔に微妙に銀を混ぜて、数年経ったらそこだけ黒くなって、あ、実は銀が混ぜてあるんだとわかるみたいな。言わないから持っている人にしかわからないけど。
その独自性が強い作品を、どのような形で楽しんでほしいとかありますか?
一番難しい質問だけど(笑)カッコいい言い方をすると、それがあることでその空間や場所が良くなるような、そういう風になったら良いなと思います。
特に用途は気にされないですか?
あんまり気にしないかな。例えば茶盌なんかは海外では茶盌として使う人のほうが少ないし、むしろ造形的に美しいといってオブジェ的な感覚で飾られる方も多いので。撫で回してもらっても、飾っていただいても、お茶点ててもらっても自由に楽しんでいただけたら嬉しいです。