西浦武 秘蔵名品展に寄せて
by 森一馬2024年11月、惜しまれつつ逝去された越前の名工・西浦武さん。当店では翌2025年4月に「西浦武 追悼展」を開催し、その長い作陶の歩みを偲びながら作品を紹介した。
それから一年余りが過ぎた先月、娘で陶芸家の西浦朋子さんから一本の連絡をいただいた。
「父の工房を整理していたところ、遺された作品がいくつか見つかりました。せっかくなら、少しでも多くの方に見ていただきたいと思い、ご連絡いたしました」
その言葉を受け、早速福井へ向かい、脇谷窯に遺された作品を拝見した。
そこにあったのは、西浦さん独自の碧砂釉の作品を中心に、桃山陶、須恵器、李朝など、さまざまな古陶磁から着想を得たであろう茶盌や酒器の数々だった。
一見すると、それぞれ作風は大きく異なる。それでも茶盌作品を手に取った瞬間、不思議なほど共通した感覚がある。
「ああ、西浦さんだ」
そう思わせる、独特の安心感がある。
西浦さんの轆轤には、ほんのわずかな「癖」が感じられる。とりわけ茶盌は飲み口側に向かってほのかに傾き、そのわずかな傾斜が、茶を口へ運ぶ所作を自然に助けてくれる。ほんの些細な造形ではあるが、使い手を想う作り手の気遣いがそこに感じられ、実際に茶をいただくたび、その心遣いがじんわりとありがたみに変わっていく。
単なる造形上の特徴ではなく、作り手が使い手を想いながら器を作っていたことの表れなのだと思う。長く西浦さんの茶盌を扱ってきた私は、目を瞑って手にしても、正面がわかる。それほどまでに、手の中に残る西浦さん独特の感覚がある。
これまで多くの茶盌を手にしてきたが、同じような感覚を覚えたのは、昭和初期の名工によるごく一部の作品くらいだ。
そして今回、改めて驚かされたのが、西浦さんの作陶の懐の深さだった。
例えば黄瀬戸を思わせる一碗。確かにそこには黄瀬戸の面影がある。しかし、それは決して古陶をなぞっただけの「黄瀬戸風」の器ではない。越前の土があり、西浦さんの轆轤があり、西浦さんの焼成があることで、最後には紛れもない「西浦武の作品」として成立している。
桃山であれ、須恵器であれ、先人たちが遺したさまざまな古典を受け止めながら、「私はこれを越前の土と炎でこう作る」とでもいうような、静かで強い意志を感じる。
そして、なかでも西浦さんのオリジナルとして象徴的な存在が「碧砂釉」だ。
まず薪窯で越前の焼締めの器を焼き上げ、そこへ碧砂釉を施し、再び薪窯へ入れる。二度の薪窯焼成を経て、あの碧く、ときに緑や白を交えながら複雑に流れる景色が生まれる。
一度の窯焚きだけでも大変な時間と体力を要する薪窯を、碧砂釉では最低二度焚く。その手間を、西浦さんは晩年まで惜しまなかった。
朋子さんによれば、逝去されるほんの直前まで、「次はもっとこうしてみよう」「次の窯ではこうしたらどうだろう」と、その先の作陶について話していたという。
その話を聞いたとき、私は画家ポール・セザンヌの最晩年を思い出した。
1906年、セザンヌは野外制作中に嵐に遭い、帰途で倒れ、その後肺炎を患って67年の生涯を閉じた。それでもなお制作への意欲を失わず、最期まで絵と向き合い続けたことで知られている。
自らの表現に完成を見ず、「もっと先がある」と制作へ向かい続けたセザンヌ。その姿が、亡くなる直前まで次の窯のことを考えていた西浦さんと、私の中ではどうしても重なる。
今回の作品を前に、朋子さんはこんなことも話してくれた。
「父の轆轤は本当に早いんです。徳利なんかも、あの手早さで作っているのに、こんなに柔らかく、ふっくらとした形になる。歪んでいても、それが土の赴くままに自然に歪んでいる。私はまだ自我が出てしまったり、丁寧すぎたりするところがあって、葛藤しながら作っています」
そして工房を整理する中で、やはり父のオリジナルである碧砂釉は、この脇谷窯に残していきたい――そんな思いも芽生えてきたという。
それを聞いて、私はとても嬉しくなった。
技法だけを受け継ぐことが継承ではないのだろう。同じ土に触れ、同じ窯と向き合いながら、迷い、考え、「次はこうしてみよう」と試み続ける。その姿勢そのものが、西浦武という陶芸家から受け継がれていくものなのかもしれない。
今回紹介するのは、そんな西浦さんが工房に遺した作品である。
世に出ることなく脇谷窯に眠っていた一碗、一客。それぞれの作品には、西浦さんが長い作陶人生の中で試みてきたもの、そして最後まで失うことのなかった探究心が確かに宿っている。
西浦武さんが遺した名品の数々と、尽きることのなかった「次」への思い。
ぜひ作品を手に取り、その余韻を感じていただけたら幸いだ。
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