悪陶 ー可児孝之インタビュー
by 森一馬可児孝之さんの作品を初めて目にしたのは、3年ほど前だったと思う。当時は皿などの食器が中心であったが、温かみのある色絵がとてもカッコよく感じ、Instagramをフォローさせていただいていた。
ところが二年ほど前から、茶盌や独創的な造形の作品が少しずつポストされるようになった。とりわけ惹かれたのは黒織部の茶盌だ。黒い釉薬に赤絵が非常に良いコントラストを生み出しており、造形にも遊びがある。思わずお声がけさせていただき、土岐市に向かい話を聞いてきた。

可児さんの家業は、もともと陶磁器の卸売だったという。
「元々は家業として仕入れたものを販売する仕事をしていました。ただ当時バブルがはじけた頃で、景気の影響もあり、商売の形を変えていかなきゃいけないという危機感を感じていました。そこで、白い生地を仕入れて絵付けをする加工の仕事を始めました。最初は母親と二人で、転写を貼ったり、線を引いたりするようなところからです。
だんだん慣れてくると、色を差してみようか、もう少し描いてみようかと。絵をきちんと習ったわけではないんですよ。必要に迫られて、少しずつ覚えていった感じですね」
その後、近所の窯元の社長から声がかかった。絵付けだけでなく、器を作るところから覚えてみないかと誘われ、一年間その製陶所で修行することとなった。
「そこでは作るところから焼くところまで、全ての工程を仕事を見せてもらいました。そこで一通り器が出来るまでを覚えることができ、一年経って家に戻ってからは、絵付けの仕事を父親と母親に任せて、自分は窯とろくろを買ってイチから作り始めたんです。
ろくろやタタラで生地を作って、自分で絵を描いて、焼いて販売する。今度は加工するだけではなく、最初から完成品を自分で作る仕事です。ただ、その頃はまだ作家として名前を出していたわけじゃありません。地元の流通の中で作品を販売していました」
そうして十年ほど制作を続けるうち、グループ展や個展の話が舞い込むようになった。誰かに師事して公募展に出品するという正当な道ではなく、仕事を通して身につけた技術が、少しずつ作家としての活動につながっていった。
それからも絵付けについても、独学で学んできた。
「料理屋さんが持っている古い器を見せてもらって、『これと同じようなものはできないか』という仕事があったんです。有田のものだったり、京都のものだったり、いろいろですよ。それらしく仕上げるにはどう描けばいいのか。そんなことを繰り返すうちに、いろんな描き方が自分の中に入ってきたんだと思います。本当に我流です」
古い器を写す一方で、各地の窯元や展覧会にも足を運んだ。なかでも強く惹かれたのが、北大路魯山人だった。
「先ほどお話した一年間修業した製陶所の社長さんが、魯山人をすごく好きだったんですよ。その方の影響も大きかったと思います。それから色々なところへ実物を見に行くようになりました。絵も描くし、形も作る。仕事全体の完成度が高いでしょう。今でもやはり自分にとって目指すべき人、尊敬する人です。
魯山人と言えば、写しの仕事で須田菁華さんの写しを頼まれたこともありまして。それで実際に須田菁華さんの窯元まで見に行ったり、買って使ったりもしていました。そのあたりから、赤絵のような仕事にもずいぶん惹かれていったんだと思いますね」
写しを重ね、さまざまな様式を吸収してきた可児さん。しかし二年ほど前、東京のギャラリーで大きな転機が訪れた。
「そちらのギャラリーの空間を見たときに、今までと同じように食器を並べるだけでは難しいなと思ったんです。自分にしかできないものを、ちゃんと作らないといけない。
ずっと写しの仕事をしてきましたけど、その延長にあるものを、もっと自分なりに考えていきたい。他に類を見ないような赤絵を作れないかと考えるようになりました。それで少しずつ自分の表現を入れた作品を出してみると、いいですねと言ってくださる方もいて。ああ、こういう方向でやってもいいんだなと思えたんです」
もうひとつ驚かされたことが、可児さんは絵付けに使う絵の具そのものも、約十年前から自分で作っているという。
「以前は絵の具屋さんに頼んでいたんですけど、材料が手に入りにくくなったり、作ってくださる方が辞められたりして、同じものを頼んでも発色が変わってしまうことどんどん増えてきたんです。違う絵の具屋さんを探したり、色を混ぜて調整したりもしましたが、それにも限界がある。それなら、自分で作るしかないかなと思ったんです」
その発想が、可児さんならではの赤絵につながった。
「例えば美濃には鬼板という、鉄分を含んだ材料があります。ご存知の通り織部の鉄絵や黒い釉薬にも使うものなんですけど、これを酸化させたら赤になるんじゃないかと思ったんです。
もともと色々試してる時期、鉄の錆を窯で焼いたら真っ赤になったことがあって。それを思い出して、鬼板でもできないかなと。いろいろ調べていたら、岡山大学が昔のベンガラを再現する研究をしていて、その資料も参考にしました。地元の鬼板を焼いて砕いて、工程を変えながら試して、ようやく使える赤の原料になったんです。
ただ、赤くなればそれでいいというわけじゃありません。いつも安定した色が出ないと使えないので、そこは苦労しました。今は鬼板をもとにした原料に、ベンガラを少し調合し、欲しい赤にしています」
赤だけではない。ほかの色も材料から考え、緑には銅板から生じさせた緑青を用いている。既製の絵の具を用いるのではなく、材料から全て整えているのは驚きだった。
ここで、最初に私が惹かれた黒織部の話がつながった。黒い釉薬にも、そこに描かれる赤絵にも、出発点となる素材に鬼板がある。同じ材料が、一方では黒になり、一方では鮮やかな赤になる。その対比を知ると、茶盌の見え方がまた変わってくる。
「それは自分でも面白いと思っているんです。鉄絵にも、黒い釉薬にも、赤絵の原料にも、同じ鬼板を使う。色は全然違えど、素材は同じなので、面白いかなと思っています」
「黒織部に関しですが、僕は桃山のものを専門にやってきたわけではないんですけど、美濃にいる以上、織部的なものは自分の中にあると思います。織部が生まれる前と後では、美しさの価値観が大きく変わったじゃないですか。
それまでにない組み合わせを面白いと感じたり、形や絵を崩してみたり。自分もいろんな意匠を組み合わせて作っていますけど、そういうところには織部の影響があると思いますね」
織部の様式とは、単に緑釉や歪んだ形そのものではない。これまでになかった視点で美しさを楽しみ、器の常識を少しずらしてみること。可児さんの黒織部に感じたリズムも、そこから生まれているのかもしれない。
古いものを写し、吸収しながら、自分の表現へと変えていく。その歩みは「百子堂」の作品にも表れている。もとは古伊万里の湯呑を手本に制作を依頼されたことが始まりだったが、そこから可児さん独自の表現へと発展していった。
作品をよく見ると、染付の青に赤絵や彩色、さらに金彩が幾重にも重なっている。これらを順々に描き入れながら、完成までに四、五回もの焼成を繰り返すという。色彩豊かな文様の奥には、実に手間のかかる制作工程が隠されているのだ。
「今は効率よりも、どれだけ手がかかってもいいから欲しいと思っていただけるものを作りたいんです。我流でやってきたので色々遠回りしてきましたが、それでわかることもありました。」
可児さんは作品以外に、のし紙やウコン布にも絵を描く。のし紙には「悪陶」という文字を記している。物騒にも見えるこの言葉には、本人なりの思いがあるらしい。
「僕は正統派じゃないですからね(笑)。でも『悪』という字には、ただ悪いというだけじゃなくて、普通の枠には収まらない、突出したものという意味もあると聞いたことがあって、そっちの意味が気に入っているんです。自分も、型にはまらない、そういったものが作れたらなと常々思っています」
家業の卸売から絵付けへ、絵付けから器づくりへ、そして自分だけの赤を求めて材料づくりへ。振り返れば、可児さんはそのたびに、小さな革命を少しずつ起こしてきた。
古い器から学ぶことと、古いものにとどまらないこと。美濃の素材や織部の自由な精神を、自分の手で別の表現へと変えていくこと。黒織部の茶盌には、その積み重ねが表れているように思う。
そして私事で恐縮だが、可児さんの生き方には、どこか自分と重なるものを感じている。私も大学卒業後、独学で音楽制作を始め、その後はファッションの世界に飛び込み、今は茶盌を扱っている。誰かに師事するとか、学校で学ぶという発想もないまま、その時々に面白いと思ったことを、ただただやっているだけなのだが、あるとき知人から「その生き方はまさにストリートスタイルだね」と言われたことがある。恥ずかしながら妙に腑に落ちて、それ以来、その言葉が気に入っている。
可児さんと話していると、ものづくりへの向き合い方だけでなく、車の趣味にまで通じるところがあって、思わず笑ってしまった。歩んできた世界は違っても、どこか似た感覚を持っているのかもしれない。
邪道、悪陶、ストリートスタイル。呼び名は違えど、決められた道を歩くより、自分の感覚を頼りに道を切り開いていく。可児さんの独自の感覚やユニークな世界観を、作品から感じ取っていただけたら幸いだ。
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