~ラフマニノフを愛する孤高の陶芸家~澤田勇人インタビュー
by 森一馬筆者は幸か不幸か生まれながらにして絶対音感があり、聞いた音を一瞬で譜面におこせる特技を持っている。そのため時に、ふいに聴いた音が頭の中に残り勝手にコードが生成され続けたり、こういった文書を書く時、音楽があるとそちらに意識を取られ全く書けなかったり、また長く音楽の仕事をしてきたため、いわゆるポップミュージック的な音楽を聴くと身体が勝手に仕事モードに切り替わる癖もあったり。色々と音に関してややこしい脳を持っているのだが、唯一あまりそういった支障をきたすことなく聞ける音楽がクラシックであったりする。ここ1年はコロナ禍でコンサートにも行けていない日々だが、コロナ前は毎月と言って良いほど様々なコンサートを聴きに出かけた。
澤田勇人さんの工房へ入ると、まず耳に飛び込んでくるのがクラシック音楽。彼のアバンギャルドな作品が並ぶ中クラシック音楽は一見不釣り合いにも思えるが、作品を良く良く拝見すると、カラフルで遊びのある作品の表層の奥に、ベーシックでクラシカルな陶芸文化への敬意が感じられる。そして陶芸の話よりも圧倒的熱量で語るクラシック音楽への愛情。そのウィットに富んだイマジネーションが生み出される背景を覗きたく、作家に話を聞いてきた。
ーーーーー以下インタビューーーーー
お父様が陶芸家ということは伺っておりましたが、陶芸への興味のきっかけはやはりお父様なのでしょうか?
いや全く、全く無いです。陶芸をやらずに20代中盤まで来ていたので。
そうなんですか?ではどのようなことに興味をお持ちでしたか?
実は何に対しても興味がない人間で(笑)大学も普通になんとなく経済学科。ただ祖父が福祉の仕事をしており、福祉大学に編入し直したんです。また叔母が茶道と華道をやっており、それらを覚えれば福祉のほうで役に立つかなと思い、始めました。そしたら小原流のお花にはまってしまい。
最初は華道なんですね。
そうですね、お茶よりお花に興味を持っていました。そうしながら、父の陶芸の仕事をバイト感覚で手伝い初めました。ですので、初めて土を触ったのは24歳ぐらいでした。
作品を作ったりもしたのですか?
いえ、初めは週に何日か、どちらかというとどうしたら売上を取れるか、原価計算とかそういったことをやっていました。徐々に、もっと売りたい、どうしたら売れるかなといろんな周りの作品を見始めるようになり、そうすると父の作品なんですが、だんだん自分の色を出したくなってきて、父に口出しをするようになってきて。
もっとこうしたほうがいい!とか?
そうです、ただ父にとって僕はただの素人じゃないですか?そうすると喧嘩になるんです。本当に毎日喧嘩(笑)
それはそうなりますよね(笑)
はい、そんな毎日を過ごしながら、大学も卒業した頃、近くに手塚美術さんという美術商さんがいらして、全国の作家の作品を集めてらした方なのですが、その方が父の個展をしたいとうちに来られて。その時に自分が遊びで作った陶板みたいなものを1枚見せたら、親子展やればいいんじゃないって言われて。
え?突然ですか?
はい、そしたら父にも「やれるもんならやってみろ」と言われて、なんか父をギャフンと言わせてやりたいという気持ちが沸いてきて。
凄いキッカケですね(笑)
はい、それで作品を作り出して、しばらくして公募展というものを調べて知ったので、これで入選すれば父を黙らせられると思い。若気の至りなんですが、それで公募展出したら通って、親子展もやることになり。
いきなり誰にも何も教わらず公募展出して通ったんですか!?
そうなんです、そんな父との関係だったので、父からも一切陶芸は教わっておらず。父が轆轤を使っていたので、自分は手捻りで作品を作り、日本陶芸展に入選し、その後伝統工芸展にも入選しました。
凄い。伝統工芸展に陶芸キャリアほぼゼロで通るなんて。
むしろそこ通らなかったら無理だと思っていました。そもそも何の陶芸のバックグラウンドもなく、陶芸の知り合いもいない中、公募展でも通らない限り名前も出ないですから。
いやいや、普通はみんな通らないんですよ(笑)でもそれでお父様はギャフンと言いましたか?
言わないですよね(笑)認めたくなかったんでしょう。今は普通に応援してくれているのですが、数年間はやはり喧嘩してました。
そんな感じなのですね、親子喧嘩から陶芸を初めた。
キッカケはそんな感じですよね。本当に父親をギャフンと言わせたかった(笑)しかしそれがやっているうちに、どんどんものづくりが楽しくなってきました。その後も手塚美術さんに面倒みてもらいながら、水戸の京成百貨店で個展をしたり、グループ展や公募展に出していって、2015年に始めて日本橋三越さんで個展をやらせてもらいました。
トントン拍子ですね。作風は当初からこのようにアート寄りなものだったんですか?
はい、器を作っているという感覚よりも、好きなものを作っているという感覚に近いです。ただ器型といいますか、茶碗でいう見込みの部分が好きで、そこがあることで何か人と近くなる気がして。
オブジェとかそういった作品よりも?
そうですね、器の中って魅力的で、人を受け入れる感じがすると言いますか、器をベースにした表現は好きです。
しかし澤田さんの作品は作り込みが凄いといいますか、いわゆる一般的な器の形をしてないですし、鳥もそうですが、何かに例えたくなるみたいなものが多いですね。
それを意識している部分もあるんです。パレイドリア現象って言う、雲が何かに見えるみたいな。人それぞれ生きてきた年代や環境で人生の過程が違うから、僕の作品って人によって全く違ういろんなものに例えられるんです。それって実は愛着を持ってもらえる要素の一つだと思うんですね。例えば富士山ぽい作品を富士山と名付けて、そう見てもらおうとするより、あえて名前をつけず、その人それぞれの過去からリンクしたものを浮かべてもらって「◯◯っぽいよね」と言ってもらうほうが、そのものに対する愛着が湧くような気がしています。
それは面白い発想ですね。確かに自分の体験と結びつけることで愛着が湧く感覚はあるかもしれません。
それにフィギュア感といいますか、愛でられる抽象的なものであることも大事だと思っています。先程森さんが僕の作品をビルディングみたいだと仰いましたが、部屋の中にミニチュアのビルディングがインテリアとしてあって、それが無理すれば使えるみたいな。常に使われなくても、これ実は使えるんだよ、みたいな。
そのほうが制約なく作れそうですよね。
はい、ただお茶の人には時々怒られます。前に百貨店で僕の作品を買ってくださった方の旦那さんがお茶をやられていたらしく、作品を見て「この茶碗を使ったら私は裏千家を破門される」と仰ってて(笑)箱書きに「裏千家破門茶盌」て書こうかと思いました(笑)
それはヤバいですね(笑)しかし作品には相当手が込んでいると思うのですが、結構籠もって制作と言った感じですか?
もうずっとここにいて制作してます。一つの作品を作るのに相当な時間がかかっていますので、年1回の個展を回すのも精一杯で、すでに4年後ぐらいまで個展が決まっています。
4年ですか!?
はい、大体個展ベースでものを作って、それだけでもここに籠もりっきりで制作してもギリギリで。なので今回森さんからご連絡いただいたのは2月、今11月で、ようやく少しだけ見ていただけると。長くおまたせしてすいません、ですが最新の作品をご用意いたしました。
ありがとうございます。春の個展で、初日に行ったのにぐい呑が完売でびっくりしたのを覚えています。
あの時は20点ぐらい出したのですが、開始2,3分ですぐに全てなくなってしまい、さすがにまずいと言われたり(笑)もっと数が出せれば良いのですが、やはり納得行くまで作り込むとどうしてもそれぐらいしか数が出せないんですよね。
そうですよね。しかしずっとここで制作をしていて、新しいインスピレーションはどのように得ていますか?やはりクラシック音楽?
元々集中するために言葉の無い音楽をということでクラシックを聴いていたのですが、だんだんと興味が沸いてきて、それで水戸芸術館のコンサートホールにクラシックを聴きに行ったらすごく感動して。生まれて初めて人からサインもらいました。バイオリニストの庄司紗矢香さんに。
そうなんですね!そんなに感銘を受けたんですね。
なんと言いますか、消える芸術って凄いなと。一音のために人生賭けて、その一音が一瞬で消えるって凄いと。
確かに、その瞬間瞬間が勝負みたいな美学はありますよね。自分はロシア関係の店をやっているのもあり、ラフマニノフとかショスタコーヴィチなんかを店内で流してますが、その辺り生で聴くと本当にぐわっと来るものがあります。
ラフマニノフ最高ですよね。ベタではありますがピアノ協奏曲第2番は本当に好きで、そればっかり聴いて線を彫ってた時期がありました。それ聴かないと線が彫れないってぐらい聴き込んで、初めて生で聴いた時は本当に涙出そうになりました。
あれは曲が完璧すぎます。僕も主題が戻ってくるとこでは必ず涙出そうになります。最初に主題を見せて置いて、そこからいろんな物語を見せて戻ってくる、ズルすぎます(笑)
まさに再生ですもんね。生は本当にヤバかった。自分も結構いいなと思う曲調べてみたらロシアの作曲家ということが多いです。東欧とかロシアとか。全然クラシック詳しいわけではないですが、気づいたらその辺りの作家を聴いてて。
ドイツ系の作曲家とかって、もちろん作曲家にもよりますが、比較的学術的に積み上げて作っているようなものを感じたりする印象があるんですが、ロシアだと情緒とかそっちが凄いですよね。
まさに情緒感凄いですよね。
はい、ロシア人て、日本の感覚で言うと小さい頃から芸術英才教育みたいなものじゃないですか。ドストエフスキーとかトルストイ、プロコフィエフが必須で育つみたいな。見る方、聞く方も玄人なんですよね。
オーディエンス側の目が肥えてるんですね。そういえば来週も水戸にピアノの演奏聴きに行きますよ。
本当にお好きなんですね。
水戸芸術館のコンサートホールって、小澤征爾さんが館長で、結構有名な人が来るんですよね。また音の評価なんかも高いみたいで。
そうなんですね、一度聴きに行きたいです。
コロナ対策もしっかりしてて、安心して聴けます。そうそう、新ダビッド同盟って庄司さんが作ったグループがあって、凄く良いんですよ。最初にこの人達の演奏でクラシックにハマりました。生音って凄いなって。(嬉しそうにサイン入りのパンフレットを見せてくれる)
クラシック界もこういう若手が組んで研究しているというのは良いことですね。
そうですね、最初に聞いた時にゾワッと震えました。
一度ベルリンで、野外でクラシックを聴いたことがあるんですが、乾いた空気の中音が本当にウェイブで空気を伝わって来るのがわかるんですよ。凄く気持ちよくて。
それは良さそうですね。音が身体に入ってくるときの震えみたいなのってたまらないじゃないですか。それを味わうためにホールに行ってる、音を浴びるために行ってるみたいな。
そうですね、浴びると言えばボレロとか凄いですよ。自分はラヴェルが一番好きなんですが、ボレロは生で聞くとやばい。
あれはやっぱ最後の方凄いですか?
N響のボレロのクライマックスは2階席でもうるさいぐらい凄いですよ、迫力が。しかもボレロってずっとソロ回すから、緊張感凄いんですよ。最後にトロンボーン回ってくるんですが、ギリギリのハイトーンをソロで吹くから緊張感MAXで。ボレロの演奏前は楽屋から普段以上に練習の音が漏れて聞こえてきます。て気づいたら半分ぐらい音楽の話ですね(笑)
確かに(笑)でも陶芸やってて、新しいことってなんだろうって考えるんですが、組み合わせじゃないかなって思ってて。本当に新しいものを作るのではなく、組み合わせの妙というか。クラシックも結局あの時代が凄く良くて、でもその時代の曲を今の人が弾いてて、今の時代感でそれぞれ解釈して表現してるわけで。それを陶芸で考えると、今の桃山の人たちがまさにそうで。クラシックなものを現代的に解釈して作るっていう。
まさしく僕はそれを川瀬隆一郎さんのインタビュー(コチラを参照)で書かせていただいたのですが、井戸茶碗をクラシックと例えると、それをどう現代の作家がアレンジしてるかみたいな。僕はギーセキングってピアニストが好きで、ラヴェルなんかを自分の色を入れずに淡々と弾くピアニストなのですが、人によってはフレンチな情熱感を入れたり、そういうのあんまり好きじゃなくて、井戸も同じく作り込むより、さらっと作るほうが好きだったり。
面白いですね。ちょっと話戻りますが、ラフマニノフの協奏曲も、僕は最初に聴き込んでたテンポに慣れてしまってて、ラフマニノフ本人のものがあんまり好きじゃない(笑)
早いですよね。
早いんですよ。最初に聴いたのに慣れてしまって、あのテンポでは聞けないなぁと思ったり。
僕は逆に曲が艶めかしいので、本人のテンポぐらい早いほうが良いと感じるときもあります。
あー、そういう聴き方もあるんですね、また脱線しちゃいましたが(笑)
そうですね、井戸もそうか、面白いですねその考え方。
そうですね、だから井戸も、昔の陶工はこれが有名になる茶碗と思って作ってないんですよ。ただ今の作家はみんな国宝だって知っていてやるじゃないですか。それをどう表現として表していくかで全然変わりますよね。それで新しいものも生まれてくる。
井戸と言えば僕、実は桃山陶も大好きなんですよ。そういったクラシカルな器も大好きで。
そうなんですね、それで少し織部を感じられる要素が入っていたり?
そうです、カラフルなぐい呑なんかも実は三彩で、特にそれを意識しているわけではないんですが、作ってみたらやっぱり三彩になる。三色で彩るって人間の美意識の深い部分にあると思っていて
言われてみればそうですね、青、緑、黄の三彩。国旗なんかも三色が多いですよね。
その辺り、人間というか私達ホモサピエンスに備わったプリミティブな美意識だと思うんです。クラシカルな茶道具や陶芸も、そういった美意識の深い部分の琴線にふれる何かがあるわけで。
それを今の時代で解釈して作っていくから、一見アヴァンギャルドに見えて押さえる所は押さえている。なんか急に作品がクラシカルなものに見えてきました(笑)でもある作家さんも言われていましたが、織部なんてその意味合い含めて織部なわけで、現代の茶室でひょうげたものとして見られないと織部じゃないとも考えられるわけで。そう考えると澤田さんのこの茶盌が「織部です」はまさしくと感じます。
裏千家破門織部と言われなければ良いですが。。。(笑)でもそういった解釈をしていただけたら嬉しいです。先程も言いましたが、新しいものを作るっていうのは、いきなり本当に新しいものをというのではなく、積み重ねによってできていくものだと思っています。積み重ねによって文化ができたことでホモサピエンスがネアンデルタール人を倒したみたいに、積み重ねるということが一つの人間の性質ではあるみたいなんですね。そう考えると我々は意識するまでもなく、過去のものから大きく影響を受けていて、いかにそれらを組み合わせて新しくみせるか、それが新しいものを生み出すことだと思うんです。科学なんかもも同じで、アインシュタインがあれを突拍子もなく発表したわけではなく、過去の科学者たちの積み重ねがあった上で、捉え方や視点がうまくずれて生み出されたみたいな。陶芸を何年もやっているとそういった積み重ねは無意識のうちに自分の中にあるものだと思っているので、色々な視点から今後も新しいものを生み出して行きたいと思っています。
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澤田勇人氏のインタビューを終え帰り道、私はピカソとマティスを思い浮かべていた。セザンヌという近代絵画における正解(筆者の私見です)ができてしまった後、ピカソとマティスはどうしたか。ピカソはセザンヌの形状や画面構成的要素を進化させキュビズムを生み出し、マティスはセザンヌの色や情熱を抜き出し、それがフォービスムへとつながっていく。双方ともにセザンヌあっての作風であり、その後ブラック、ボナールやヴラマンクから現代へとつながっていく。日本の陶芸もすでにいくつかの国宝や重要文化財があるという意味で、セザンヌのようないわゆる絶対的な「お手本」が存在する世界。しかしそれらのお手本が作られたのは何十年~何百年前の話で、もちろんネットもスマホどころか携帯電話も無い時代。笑いのツボからダイバーシティに至るまで、あらゆる価値観が変わる中で、陶芸にも「こうあるべき」を取り除いたリベラルな価値観が必要なのかもしれない。そういった意味でも自由な発想と思い切った再構築を盛り込んだ作品を作り出す澤田勇人氏は、この令和の時代に最もフィットする陶芸家の一人であり、今後どのように進化発展していくか非常に楽しみな作家である。