吉見螢石「螢窯」へ行ってきた
by 森一馬隠さずに言うが、初めて吉見蛍石先生にお会いした時、大変失礼ながら窯元のセールスか何かの方なのかなと思った。ファッション業界が長いため、多様性やジェンダーに関する意識は低くはないはずの筆者であるが、それでも彼女が作る粉引や須恵器を見て、これを女性が作っているということが全く想像できなかった。それこそ作務衣を着て難しそうな顔をした陶芸家が穴窯の前で薪を放り込んでいる、そういった情景が浮かぶほど、彼女の作る作品は高台から造形に至るまで非常にダイナミックかつ渋い。「男勝り」なんて表現を使うと時代遅れで、ジェンダー界隈からお叱りを受けそうだが、まさにその言葉が相応しいと感じるほど力強い作品と、小柄で小綺麗、お洒落な作家の見た目が全くフィットせず、しばらくの間かなり戸惑った。
「初めてお会いする方にはみんなにそう言われます。何か作品とイメージが違うみたいで、私が作ってると思われないんですよね。でも大体の人が手を見せると納得してくれます。」確かに、小柄な見た目からは想像出来ないような職人の手。轆轤を挽いて土と炎と戦う、まさに戦士の手だ。12月半ば、そんな螢石先生の工房である「螢窯」を訪ねた。
大阪の南、泉南郡の熊取町にある螢窯。岸和田から車で20分弱、小学校や住宅、町の施設に囲まれたのどかな場所。ここに螢石先生が穴窯を築窯したのは2005年。
(薪が綺麗に並んだエントランス。煙突奥に見えるのが穴窯)
「築窯して5年ぐらいは、本当に全くと言って良いほど取れなかった(思うような作品が出来なかった)んです。しかも重労働だし6日間夜寝れないし、やっぱり火って怖いし、そして何より思い通りにならない。もう辛くて辛くてこんな大変なもの持ってしまったことに後悔する毎日でした。もう止めようって毎回思ってた。でも今止めたらそこまでやってきたことが全て無駄になると思ったら、止めることが出来なくて、それで何とか続けて17年。今でも窯出しは憂鬱、気が小さいから、思い通りに焼けてなかったらどうしようって考えちゃって、怖いんです。普通は陶芸家ってそこが一番楽しみなはずなのに、私はいつも、できるなら誰か他の人にやって欲しいって思うぐらいなんです(笑)」
「未熟だった頃は、穴窯が思い通りにいかないから、無理矢理力技で何とかしようとする。そうすると逆に反発したように、更に良くないものが出てくるんです。寄り添って順応するしかない。いかに自然と共存するかなんだってわかってきてから少しずつ思い通りの作品が取れるようになってきました。穴窯って焼いてる人間の心が反映される気がします。順応していかなきゃいけないんだって辺りは、本当に、人生観そのものを教わっているような感じがしています。」
螢窯の工房内にはなんと、待庵の写し「螢庵」が!こちらにて螢石先生のお茶碗で一服頂戴した。侘びた土壁とこのミニマルな空間、そして静寂。床の間には螢石先生の陶板が。
「書を5歳の頃に初めて、高校生の頃からずっと一人の先生についていて。その方が様々な「道」を経験させてくださって、その中で陶芸が面白いと感じて1990年に陶芸の道に入りました。最初は灯油の窯を買って食器やカップなんかを焼いていました。書と違って立体的になることが面白くて。そして続けているうちにやっぱりお茶碗を作りたくなってきて、やるなら穴窯をと思い穴窯を作って、そしたら茶道もやるから今度は茶室も欲しくなって。なんでも突き詰めちゃう性格なんですよ。」
「ふとある時、書を焼き物に入れてみたらどうかなとやってみたんだけど、書道家が文字を入れるからなのか全く焼き物と融合しなくて。「字が無いほうが良いわ」なんて言われたりしてたんだけど、少しずつ焼き物も理解してきて、どうやったら焼き物と書が上手く混ざるのか考えて色々とやっているうちに、少しずつ融合するようになっていきました。」
「そしてその後、友達の陶芸家が陶片に上絵を描いて貼り付けて額にしているのを見て。これなら書でもいけるんじゃないかと思い、陶額を作るようになりました。目新しいものだったからなのか、陶額が少し話題になって色々と個展等のお話をいただくようになり、仕事も順調に増えてきたんだけど、今度は私自身が、陶額作ってる人って本当の陶芸家じゃないなと思うようになって。やっぱり陶芸家ならお茶碗作れないとと思っちゃったんですね。それでそこから茶室へと、さっきの話に戻るんですけど。とにかく私は欲張りなぐらい色んなことやりたくて、常にこれやりたいあれやりたいって頭の中にあって。」
人気の窯変須恵器手。こちらは元々自然に溢れた釉薬が窯変して出来たもの。
「これも元々須恵器の焼成で焼締めなんですけど、内側にかける釉薬が外側にこぼれたりかかったりして、それが時々窯変して赤や青になっているのを見て、これ面白いんじゃないかって思って。窯変しなければ黒のままなんですが。場所に寄って窯変したり、火前火後で変わったり。それもまた面白いですよね。」
しかし小柄で優しい雰囲気の作家のどこから、この底知れぬほどのエネルギーが沸いて出てきているのだろうか。
「私こんなに小さくなかったんですが、穴窯作ってから毎日大変すぎてどんどん痩せて、最近みんなに小さいとか痩せてるとか言われるようになって。絶対長生き出来ないんやろうなと思ってます。そのぐらい大変だけど、私ここで生まれ育ってて、元々書から陶芸に入ったものとして、私が陶芸やるなら須恵器しかないなと思ったんです。陶芸家の家の生まれとかでも無いし、陶芸家とのつながりもない私が、いきなり他の産地のものやったってまさに縁もゆかりも無いじゃないですか。でもこの辺りは歴史を紐解くと、須恵器の発祥の地だと言われてて、少し北の方には陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)もある。それなのに須恵器を作ってる人が誰もいないんですね。それだったら私が須恵器をやろうと、そして須恵器をやるなら穴窯が必須なんです。なので命削っても穴窯やり続けなきゃいけないんだと思ってます。もちろん思い通りに焼けたら楽しいし、こうして私の作品が良いって言って来てくださるのは本当に何より嬉しいから、そういう時は穴窯やってきて良かったなって思います。」
冒頭にも書かせていただいたよう、この令和の時代にジェンダーギャップを感じさせるような表現はできる限り控えたい中、それでも敢えて言うと、陶芸、特に土物で更に穴窯は体力ある男性でも大変なわけで。そんな中女性一人で轆轤を挽き、陶板、陶額から茶道具、酒器、花器、そして須恵器の飾り物に至るまで全てを成形し、しかも穴窯で焼成するとはどれほど大変か、正直想像もつかない。更に窯から出てくる作品は粉引や須恵器等、いわゆる華やかさとは無縁の、素朴で侘びた作品なのである。インタビュー中、そのあまりのギャップに思わず何度も笑ってしまい「そんなに可笑しいですかね?私、やっぱり可笑しいのか。」と螢石先生。しかし時代は令和。おかしいのは恐らく、それが可笑しいと思った筆者の固定観念。ファッション業界に比べコンサバティブなイメージのある陶芸界だが、螢石先生のような作家がいらっしゃることは、様々な観点からも業界にとって誇らしきことであり、まさに先生には日本陶芸界における女性活躍の顔として今後も活躍していっていただきたいと、そう願うばかりである。