陶歴70年、若尾利貞先生、降臨
by 森一馬若尾先生のアトリエは、工房、母屋の手前に応接室を兼ねたギャラリーがあるのだが、その空間の心地良さたるや筆舌に尽くしがたい。利貞先生作の大きな水彩画や。小山冨士夫先生の書、中国や台湾の骨董に、利貞先生、経先生の作品が美しく展示されている。初めて伺ったのは昨年の桜の季節。初対面で早速経先生にインタビューさせていただいたのだが、話をする先生の背後には、窓の外に桜吹雪が舞い散っており、その何とも雅な光景は今でも筆者の目に焼き付いている。いつも経先生のお母様、郁子さんがお茶を持ってきてくださり、何度目かにお邪魔した時から、一緒にお話してくださるようになった。
その展示室に展示されていた利貞先生の作品。あまりの色気と艶っぽさ、尊さになかなか触れられずにいたのだが、いよいよその魅力的な作品の虜になってしまった頃「今日は親父がちょっと顔出すって」といきなり経先生。心の準備が全くできていない私のもとへ、郁子さんと一緒に利貞先生が見えた。神降臨。小柄ながらもの凄いオーラを持った利貞先生、開口一番「経から伺っています。ネットで販売されてるということで、随分革新的なことやられているようで。今すでにネットの時代ですから、そこをやっていかないと時代に取り残されますから。」
御年89歳。インターネットという言葉に難色を示す世代に違いないと容易に予測してしまう、そんな筆者の不安を打ち砕く先生のお言葉に、一気に緊張が解れる。数々のファッション界の大御所と会ってきた筆者だが、全く違った芯のあるオーラに、先生の歩んできた歴史の深みを感じる。
「第一回の人間国宝に荒川豊蔵先生を指定する調査で、小山冨士夫さんがたまたまこの辺りを通っていて、小山先生がここの土が磁州窯の土とよく似ていると言って、ここで作陶するようになって。中学生の頃それを手伝って陶芸の面白さを知ったんです。」
経先生へのインタビューでも、経先生が小山冨士夫先生の影響から青磁に興味を持たれたという話を伺っていた。また、これは後ほど郁子さんから伺った話だが、あまりに作陶に夢中になる利貞先生を見て、小山先生が利貞先生のお父様に「作家は食えないから辞めさせたほうが良い」と仰っしゃられたと言う。そこで一度利貞先生は、街に働きに出され就職をするも、やはりものづくりがしたいと多治見に戻られたという。
「終戦後ピカソやダリ、フォンタナなんかの革新的な芸術が日本に入ってきて、私はカルチャーショックを受けて。私も茶碗なんて古臭いもの作ってちゃダメだと思って、デザイナーになりたいなと。それでクラフト、いわゆる安くて良いものと、自分の作家としての作品という2つの方向でやっていこうと思ったけど、たとえクラフトだからといって私は手抜きが出来なかったんですよ。そうすると作家活動なんて出来なくなる。だからクラフトはやめて、勤めをしながら自分の作品を作ろうと。それで大きな鉢なんかを作ったりして。そうやって色々と活動する中でいつしか、俺の生まれた所には志野という凄い無形財産がある、しかしこれを写すだけなら誰でも出来る。だからそうではなくて、『自分の志野を作ろう』と。周りが鼠志野を誰もやらないから、俺がやるぞということで、鼠志野を作り始めたんです。」
若尾利貞先生といえばガス窯で鼠志野を焼く第一人者として有名だが、ここにも一つ逸話がある。郁子さんが語る。
「ガスっていっても最初は陶芸の窯なんかなかったから、実はせんべい焼きのバーナーを持ってきてね。それで藏さん(鈴木藏先生)と二人であーでもないこーでもないやって。随分周りに馬鹿にされて、そんなもんで志野なんか焼けるわけがないってね。でも二人は計算上は行けるはずだと。藏さんはガスだけで、主人は最後に徐冷還元のため薪を放り込んで。」
利貞先生と藏先生の工房には、一見一人暮らしの部屋より大きいのではないかと思う程、それはそれは大きなガス窯が置かれている。志野を焼く際長時間の徐冷を行うため、窯の脇の厚み幅を1メートル近く取ってある特注品だ。お二方の構造は少し違えど、日本に2つしか存在しないこのサイズのガス窯の出発点が、せんべい焼きのバーナーであったとは驚きだ。今は陶芸家がガスで作品を焼くことは普通のことだが、昭和の、誰も挑戦したことのない時代にガス窯で志野を焼くということがどれだけ先鋭的であったか、想像に難くない。
「窯が冷める前に親父が待ちきれなくて窯に入っちゃって、母親と一生懸命止めるんだけど、結局入っていつも髪の毛チリチリになって出てきて。」と経先生。利貞先生の作品への強い情熱がうかがえるエピソードだ。利貞先生は続ける。
「中国陶器なんかは完璧なものを最高級の素材と作り手で作るんだけど、日本は窯変などの偶然性が重宝される。私から言わせれば偶然性なんていらないんです。穴窯窯変とかそういったものは作家がやるべきことではなく、実験的考古学だと思うんです。もしそれを作家がしたいなら、窯変すらコントロール出来るようにならなければいけない。今は3Dプリンターで、絵画だけでなく工芸すらコピーして、それを手で触れることまで出来る時代。買い物もネット、家電なんかも量販店で試して、ネットで買う時代。鎌倉とか桃山時代とは生活様式も全く違うんだから、そこに戻る必要は無いんです。私もその時代に産まれていれば、穴窯で志野を作るなんてことは普通だし、もっと容易だったはず。今の時代だからこそというものを作らなくてはいけないのです。それと、海外では昔のものを再現すると偽物だと言われるんですが、日本では優秀な職人だと言われる。そういった部分が、このグローバル社会で日本が通用しない所だと思うんです。」
3Dプリンターにグローバリゼーション。頭を棍棒で殴られたかのような衝撃を受けた。卒寿近くになっても利貞先生のパイオニア魂は衰えるどころか、誰よりしっかりと今を見据えている。そして何十年と革新的なご自身の道を信じて開拓してきた実績が、言葉に重みを与えている。
「小倉遊亀さんが100歳のときに、東京の美術倶楽部で個展をなさってて、その時に私も同じ会場で展示したのですが、100歳のおばあちゃんの描いた絵から凄い色香を感じて。その際に小倉さんが『稚拙なのはいいけど、だらしないものは作るなよ』と仰ってまして。上手い下手よりも、手を抜かない作品を作るってことが大切なんです。陶芸で言うと、茶碗だけが持っている品の良い色感、色気を感じる作品こそ良い茶碗。良い茶碗は艶があって、そうじゃない茶碗はどこか乾いて、カサカサして見えるんです。」
昔を懐かしむように、郁子さんが言う。
「その頃瀬戸の加藤唐九郎さんがよく遊びに来て、その度に経くんはいつも『怖いおじさん来た!』って逃げ回ってねぇ。笑。『坊、父ちゃんどこの土使っとるんや』とか『あの窯どうなっとるんや』とか聞かれて」
「当たり前じゃん、こっち子供なのにあんなのが来て毎回色々聞かれたら逃げるでしょ!その頃うちの周り田んぼで、唐九郎さんがタクシーで来るのが家から見えるのよ。その度にうわぁまた来たって隠れて。そんで時たま学校から帰ってきたら唐九郎さんが勝手に同級生と遊んでるし。でもそんだけ良く遊びに来てたのは、今考えるとやっぱり、どこかで唐九郎さん親父のこと認めてたんじゃないかな。」
素敵すぎるエピソード。志野の神様が認めていた利貞先生の志野。こんな一生聞いてられるような涎が出そうな話がたくさん眠っているのも、この若尾ギャラリーの心地良さの一つ。経先生はそういったエピソードをいつも惜しみなく話してくれる。そして帰り道がいつも多幸感に包まれるから、若尾先生を訪ねるのは出張の最終日にしている。それぐらい魅力的なギャラリーに並ぶ素敵な利貞先生と経先生の作品、志野と青磁の違いはあれど、造形や見込みの形状、また美的感覚がすごく似通っていると筆者は感じる。
「ずっと親父の作品見て育ってるからね。茶碗は外から見るより見込みが深いほうがいいとか、若いうちからなんとなく感じ取ってるから、嫌でも影響受けてるだろうし。いつからか時々逆に親父、俺の真似したなって思ったりするけど笑。」
それを受けて利貞先生
「倅にもいつも一つだけ言うのは、金が欲しいというものを作るなよ、痩せるから。と。」
最後に郁子さん
「主人は何年も轆轤に座り続けているから、首や肩が傾いて、歪んでしまっているんですよ。その身体を見て、長い間良く頑張ったねって、いつも言ってるんですよ。」
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
加藤唐九郎先生、荒川豊蔵先生の流れを汲みながら、独自の感覚で伝統的な志野を芸術の域に昇華させた陶芸家、若尾利貞先生。もう一つ革新的なこととして、先生は1976年にスウェーデンはストックホルムで個展を開催している。ストックホルムといえば私の最も好きな街の一つ。クリエイターやアーティストが集うセーデルマルムや、中世ヨーロッパに迷い込んだようなガムラスタンの街並みは本当に美しく、映画のワンシーンに入り込んだような気持ちにさえなる。そんなストックホルムで70年代に日本の陶芸を披露したパイオニアでもある利貞先生、「現地の若い陶芸家が次々と見物に来て、みんな本当にビックリして、感動してくれたのを覚えてます。」と語る。ネットも何も無い時代に現地の人々が若尾先生の作品を見て、驚愕したのは想像に難くない。北欧クラフトに憧れていた戦後の時代から数十年、本場ストックホルムで個展を開催し、今やストックホルム美術館をはじめ世界中の美術館に先生の作品は収蔵されている。そんな多大なる足跡を持たれた若尾利貞先生の作品に関われることは、まさに幸甚の至り。相応しいギャラリーとなれるよう、これから1年、また1年と歩んでいきたい。
若尾利貞先生の作品一覧はこちら