-桃李不言・下自成蹊- 小林勇超インタビュー
by 森一馬桃李不言。下自成蹊。
桃やすももの花が咲くところには、何も言わなくても人が集まり、自ずと径が出来る。
基本的にスピリチュアルをあまり信じていない現実主義の筆者だが、こと茶碗においては、時に掌(たなごころ)を伝って何か念のようなものを受け取ることがあると感じることがあり、それ至っては受け取ったと感じるものと現実が、あながち遠くないことがほとんどであるのだから、やはり茶碗には何か目に見えない力があるのではないかと言うと、非常にスピリチュアルな発言に聴こえてしまうのは仕方がないことなのだが。
小林勇超先生。とあるきっかけで偶然茶碗を拝見し、その信楽独特の窯あじの良さと信楽らしからぬ造形、そして掌心地(造語:たなごこち)の良さに何かを受け取り、導かれるように信楽へ。私の車のナンバーを見るなり「川崎のどちらですか?」と尋ねる勇超先生。「二子新地、溝の口の辺りです。」と答えると、「おおまさか、私は大学時代溝の口に住んでたんですよ!」と。まさに茶碗が繋いだタイムリープなご縁とも言うべきか。そんな約60年前のご近所さん、勇超先生をこの度紹介させていただく。
勇超先生は満州にお生まれになり、3歳の頃に日本に戻られ高校卒業まで神戸で過ごされた。その後東京の多摩美術大学絵画学科に進学。「学校の先生になるなら美大に行ってもいいと親に言われて進学したのですが、ただ大学時代に強羅にある箱根美術館で六古窯展がやっていて、そこで古信楽の壺や備前、越前の力のある作品を見て圧倒されてしまい。専攻科目で陶芸を選んで、すぐに陶芸に夢中になり、鯉江良二先生や森陶岳先生のところ尋ねたり、いろんな窯業地を回ったりしました。」
在学中に通った五島美術館でアルバイトを初め、様々な貴重な経験をされたという。「学生時代からしょっちゅう五島美術館に行っておりまして、そのままアルバイトをさせてもらって。そこでノンコウや伊賀の破袋など色々触らせていただいたのですが、その中で峯紅葉(鼠志野茶盌)が本当に衝撃的で。お茶のイロハも何も知らない、真っ白な状態であんな凄いものを持ってしまったものですから、もうその感覚がそれから50年経った今でも掌から消えないんですね。だからお茶碗といったらもう何も考えなくてもこの形が出来てしまう。信楽の人には、なんで信楽なのにこんな形の茶碗作ってるの?と言われたりしますが、真っ白の紙がグレイに染まってしまったようなもんで、もうそれしか作れないんです。」
筆者ももちろん峯紅葉は拝見しており、最も衝撃を受けた茶碗の一つだが、その話を伺い、勇超先生の茶碗から受け取ったものがその峯紅葉への畏怖だったのかと考えると、少し恐ろしくなった。以前三藤るいさんも我々のインタビューの中で、誌面で見た峯紅葉に圧倒されたエピソードを語ってくれたが、魔物に取り憑かれたように我々の魂に入り込む峯紅葉、恐るべし。。。
そしてせっかくなので茶碗について掘り下げるが、最初に拝見した時に勇超先生の茶碗は作品としての側面と、器としての側面、両面のバランスが非常に良いと感じた。作家物の茶碗は、良し悪しは別として、視覚的な美と用の美の間をさまようため、いつも筆者は感覚を研ぎ澄ませてそのバランスを見極めようとするのだが、勇超先生の作品はその必要もなく、自然と手が動いてしまうような感覚を覚えた。「自分の感覚に任せて作っていくのですが、いつも頭に入れているのは、とにかく使う方が粗相の無いようにということ。着物を綺麗に着飾ってお点前する方が私の茶碗で粗相をしてしまうなんて、そんなことだけは許されないので、箆目は茶巾が引っかからない角度で入れて、また茶筅を邪魔しない見込みの広さ、高さで、飲み口をしっかり作ってあげて。いくら削りを入れようとも、お茶碗ですから、そういうポイントだけは守りつつ作るよう心がけています。」
大学を卒業された勇超先生は、1年間美濃の作陶所にお勤めになり、野中春清さんのお世話になる。そしてその後憧れだった森陶岳先生の門を叩く。しかし1年間修行された後、信楽に移り住むことになる。「実はその当時山陽新幹線が通るということで、備前の辺りで良い土がいっぱい出たんです。新幹線のために掘り起こされた土がユンボにのって海岸沿いに捨てられて、その捨てられた土がどんどん値上がりして、これはもう良い土がなくなるって危機感を感じた時に、学生の頃五島美術館で講演していただいた信楽窯業技術試験場の平野敏三さんに、『信楽なら良い土はあるぞ』とアドバイスをいただき、それで信楽に来たんです。不言窯という名前も頂いて。」
冒頭の詩は不言窯の元となった、『史記』の作者司馬遷が「李将軍列伝」において、李廣の人物を讃えるために引用したことわざだ。信楽に居を移され、10年ほどはガス窯で日常の器作りを行い、昭和57年に穴窯を築窯。それから40年以上、ご自身の作品を作り続けている。刻文、波状文、流水文など信楽の伝統とは一味違った作品を生み出してきたが、最近力を入れておられるのは流水文。「信楽独特のビードロが、削りの境目に貯まるとそこに色合い等変化が出るのが面白くて、最近ずっと作り続けています。」
2010年頃には、京都を訪れていたハイアットグループのオーナー、プリツカー家の依頼で、120cmの大壺を3作品制作された。そのうち一つが京都のハイアットホテルに飾られ、それを見た海外のコレクターからも制作依頼を受けるようになる。現在では海外での評価も非常に高い勇超先生。「ミシガン州のマイヤー展に出品した作品を納めさせていただいたケスラーさんというコレクターの方の別荘にし招待していただいたり、色々な経験をさせていただきました。」
そのような色々な経験をされながら作陶を続けて来られた勇超先生、今月いよいよ傘寿を迎えられる。「ずっと作りたいものを自由に作ってきたんですが、あまりに飛躍しすぎると、信楽の魅力である素朴さ、力強さから離れて行ってしまっているんじゃないかという疑念が生まれて来る。しかし伝統的なものだけに拘っていても自分らしいものは生み出せない。今も恥ずかしながらその葛藤の中、とにかく少しずつでも良くなればと思って制作しています。」と語る。作陶55年以上、甲賀市指定無形文化財保持者の大御所陶芸家の言葉としては、あまりにも謙虚で心底驚く。作品を持ってもらう方にどのように楽しんでほしいと思いますかと尋ねると「もう私のようなものの作品を持ってもらうだけでも本当に嬉しい、とにかく嬉しいとしか言葉が見つかりません。もし少しわがまま言えるなら、やっぱり箱に入れてしまっておくのではなく、器なら使って、壺や花入れなら飾ってもらえたらなお嬉しいですね。信楽の土は水を良く吸うから、使っていると本当に変わっていくんです。そういう変わっていくところが信楽焼の醍醐味でもありますから、育ててあげてくれたら本当に嬉しいです。それと、峯紅葉が好きだとおっしゃる方のギャラリーに置いてもらうだけで凄く嬉しい。久しぶりに学生時代ことも思い出したし、本当に良い出会いでした。」
こちらこそ、勇超先生の茶碗が繋いでくれた素敵な出会いに感謝。今後も勇超先生の作り出す作品がとても楽しみだ。