益子の窯グレ 竹下鹿丸さんインタビュー
by 森一馬竹下鹿丸さんの名を最初に聞いたのは、当店でもお取り扱いのあるチェコの陶芸家、ダニエル・セコさんからだった。日本の陶芸に強く惹かれたダニエルさんが、実際に日本で窯焚きを体験したいと来日した際、泊まり込みで薪窯に向き合ったのが鹿丸さんのもとだったという。
思えば私は、それ以前から節々で彼の名を耳にしていた。聞けば松崎幹さんとは高校の同級生。幹さんは鹿丸さんを「とにかく窯焚きに精通している人」と語り、黄瀬戸兄さんこと松村遷さんは「土や薪窯、そして陶芸の歴史的背景にも深く通じた、博学な印象の方」と評する。南蛮食器を中心に焼かれているイメージを持っていたが、ふと彼のインスタグラムを開くと、そこには美しい磁器の茶盌が並んでいた。これは会いに行かねばならない。そう思い、すぐに益子へ向かった。
「端的に言うと、社会不適合者の中で育ったんです。父親が益子に入ってきた頃は好景気で、学生運動なんかも盛んだった時代。そこで一攫千金を夢見た荒くれ者たちが、たくさん益子に集まってきたんです。益子は陶芸の街として知られていますが、たぶん9割くらいは外から来た人なんじゃないかな。子どもの頃からうちではそういう仲間が集まって飲んでいて、僕の知っている“大人”って、まともな人間がいなかったんですよ。朝会社に行って土日休み、みたいなモデルとなる大人が一人もいなくて、あるべき大人像を知らずに育ってしまいました(笑)」
幼い頃から山っ気のある大人たちに囲まれて育った鹿丸さん。窯焚きを手伝いながら自然と火と土のそばに身を置き、高校卒業後は益子の窯業技術支援センターへ進む。
「焼き物はずっと面白いなと思っていたので、1年間だけ窯業学校へ通って、その後は自分で始めました。うちには登り窯があったんですが、自分は穴窯をやりたかった。なので一間目の大口を壊して、穴窯として使い始めたんです。小山冨士夫さんや中里隆さんの南蛮作品を見て、あの肌がいいなと思って、南蛮焼締を中心にやるようになりました」
震災で窯が壊れ、現在は新たな穴窯で作陶を続ける鹿丸さん。南蛮焼締という志向のなかで、最終的にたどり着いたのは、遠くの土ではなく足元の益子の土だった。
「南蛮に合う土をいろいろ探したんですが、意外と身近にいい土があるじゃないかと。ただ、一般的には益子の土はそこまで良い土とされていなくて、地元でもあまり使われないんです。耐火度も低いし、少し温度を上げるとすぐブクを吹きやすい。ちょっと風変わりな土なんですが、試行錯誤しながらずっと使い続けています」
土を採取する鹿丸さん
そして興味深いのは、その窯で磁器も同時に焼かれていることだ。
「はい、土ものと一緒に焼いています。穴窯は正面からだけ薪を焚く構造なので、奥は温度が低くなりやすい。そこに南蛮などを置いて、逆に手前の高温になる部分に大壺や磁器を置く。そうすると、無理に窯全体の温度を均一にしなくても、その温度差自体を活かせるんです」
当店でご紹介している鹿丸さんの磁器作品には、いわゆる磁器と聞いて思い浮かぶ白い器のイメージを覆す魅力がある。照りを帯びた肌に走る窯変、ほのかな炭化の気配。そして高台には炎の記憶が濃く宿り、なかには土もので相継されたものもある。
「そうですね。磁器はカオリン土を中心に使っているんですが、“白い焼締め”として珍しがっていただくことも多くて、長く作り続けています。茶盌となると高台まわりの窯変はひとつの見どころになりますし、そこにもう少しバリエーションを持たせたいと思って、高台脇だけ土で継いだ相継も始めました。それには北茨城の常磐炭鉱で入手した土を用いています。磁器だけの窯変も魅力的なので、お互い違った面白さがあると思います」

前述の益子の作家たちが言うよう、窯焚きはやはり独特なもの。
鹿丸さんの真髄は、まさにそこにある。
「まず薪をべらぼうに使います。温度を上げるためというより、強還元をかけるために薪を使うんです。薪を大量に燃やして熾きをためる、空気を入れていき、温度も上がり舞った灰が作品に付着します。熾が燃え尽きると温度が下がり、付着した灰も安定する。そしてまた薪を大量に入れて温度を上げ、還元をかける。それを一度の窯焚きで4、5回繰り返します。作品に灰の層を作ると言ったイメージです」

節々で窯焚きを手伝っている後関裕士さんも、最初は「そこまで薪を入れるのか」と驚いたという。「僕の窯焚きとは真逆の方向性だけど、だからこそ手伝っていて学ぶことも多いし、自分の窯で焼いたのとは全く違うものが出来上がる」と語る後関さん。前回の関東十盌でご紹介した後関さんの《蒼変黒茶盌 Singularity》は、まさに鹿丸さんの窯だからこそ生まれた、唯一無二の一碗だった。
そしてもうひとつ、鹿丸さんを語るうえで欠かせないのが、陶器市で開かれる「鹿丸BAR」だ。
「子どもの頃に見ていた益子の陶器市って、景気もよくて、本当にお祭りみたいな感覚があったんです。でも自分が独立した頃には、そういう熱気が薄れていて、これは自分の知っている陶器市じゃないなと思った。だったら、どうせみんなお酒を飲みながら楽しむんだし、自分で小さなカウンターを出して酒を出してみようと。それがだんだん席数も増えて、ちょっとした料理も出す今の形になりました。もともと自分自身も食べることが好きで、いろんな店に行くんです。そういう店に行くと、どんな器が使われているか、どんなサイズが好まれているかも分かるので。……まあ、それは言い訳なんですけどね(笑)」

食べることが好き、という話に絡めて、後関さんがこんな“伝説”も教えてくれた。
ある窯焚きの日、みんなで火の番をしていた最中に、鹿丸さんが突然「京都のレストラン、数年前から予約していたのを思い出した」と言い出し、そのまま日帰りで京都へ行ってしまったというのだ。「この人本気か!?と思いましたよ」と後関さんは笑う。けれど鹿丸さんは、しっかり食事を済ませて戻ってきて、何事もなかったかのようにまた窯焚きを続けたという。そうした豪胆さも含め、後関さんは鹿丸さんを「北関東の兄貴」と慕っている。
火を読み、土を見つめ、窯と向き合い続けてきた竹下鹿丸さん。
その仕事には、長年積み重ねてきた経験と、今なお尽きない探究心が自然と表れている。その風貌や豪快な生き方から「益子の窯グレ」と敢えて呼ばせていただいたが、土と炎に真摯に向き合うの中で生まれるその一碗を是非お手に取り、その景色をご覧いただけたら幸いだ。
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