Be authentic ― 安永頼山
by 森一馬そもそも私たちは、陶芸作品に何を求め、なぜ惹かれるのだろうか。
それは個々人のライフスタイルや生活環境によって大きく左右されるため、一概には言えない。しかし、私のようにどちらかと言えば都市に暮らす人間が陶芸に求めるものの一つは、やはり自然への想いや、ふとした安らぎなのではないかと思う。
安永頼山さんの茶盌を、彼の個展で初めて掌に収めたとき、まさにそうした自分の欲求が静かに満たされていく感覚に包まれた。その余韻も冷めぬうちに唐津を訪ね、ほどなくして「漢盌」「超盌」へと作品を出展していただいき、作品はすぐに完売となった。どこかで安永さんについて、きちんと文章にしなければならない――そう思いながらも、一方では、あえて語らず、彼の孤高のイメージと謎めいた気配をそのまま残しておくほうが良いのではないか、という迷いもあった。しかしこれまで幾度となく言葉を交わし思考に触れる中で、その凄まじい情熱と深い思索を単なるイメージとして留めておくのは、あまりにも惜しいと感じるようになった。だからこそ今、ここで改めて彼の仕事とその存在を正面から認め、書き留めておきたいと思う。

「都会に出ていた時期もありましたが、今はこうして唐津の自然と時間の中で生活しています。作陶は、その生活や環境そのものを伝える行為だと思っていて、そういう心持ちで作り続けています。自然そのものももちろん美しいのですが、里山のように、人の手が適度に入ることで、より美しさが引き出される風景もある。私の作品づくりも、そうした感覚に近いのかもしれません。この土地にある素材を生かしながら、必要な分だけ手を添えている、そんな意識です。」
個展でさらに印象的だったのは、その作品のバリエーションの少なさだった。無地唐津、絵唐津、そして井戸。唐津の中でも、端的に言えば地味で、玄人好みの作風に明確に絞られている。
「最初の頃は朝鮮唐津や色ものも作っていました。ただ、登窯で例えば一部屋目に唐津や絵唐津、二、三間目に朝鮮唐津などの色作品を詰めると、二間目以降の炎の回り方が前の部屋の作品に影響してしまい、どちらも理想的な焼きにならないことが分かってきたんです。私の窯だけかもしれませんが、それなら一度ほかの作風はやめて、砂岩を使った唐津作品をじっくり突き詰めようと思うようになりました」
ここで少し、古唐津と砂岩の話に触れておきたい。
古唐津砂岩説は、今から約25年前、安永さんがまだ弟子時代だった頃に、唐津の材料屋が唱え始めた説に端を発する。唐津焼の陶芸家で櫨ノ谷窯の故・吉野魁氏がこの説をもとに研究と復元を進め、その後、陶芸家・梶原靖元氏を中心に結成された古唐津研究会により研究が重ねられてきた。現在では、唐津の多くの陶芸家の間で、古唐津は砂岩を用いて作られていたという考え方は、ほぼ定説となっている。
「昭和以降に活躍してきた唐津の陶芸家たちも、どこか“何か違う”と感じていたと思うんです。ただ昭和の時代は、とにかく作れば売れる時代だったので、何が違うのかを突き詰める余裕がなかった。弟子時代に、古唐津は砂岩だと主張する材料屋が現れて、当時の私は半信半疑で聞いていました。数年前までは私自身も砂岩には触れず、いわゆる現代唐津を作り続けていましたが、いずれ砂岩が定説になっていくにつれ、古唐津が好きでこの世界に入った身として、心のどこかで“やらなければならない”という思いが増してきました。その思いが強くなったのが2023年で、本格的に砂岩に挑もうと決め、それ以来砂岩中心で作陶を続けています」
豊臣秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮陶工を連れ帰り、李参平が泉山陶石を発見したのが1616年とされている。古唐津は、その間のわずかな期間に作られ、磁器の普及とともに姿を消していった。そう考えると、白磁全盛の朝鮮陶工の指導のもとで作られたと考えられる古唐津が、粘土ではなく砂岩を中心に作られていたという説は、極めて自然に腑に落ちる。
「砂岩に取り組み始めてから、いろいろなことに合点がいくようになりました。例えば、以前より焼成時間が格段に短くなった。今とは違い薪割り機などがあるわけでもなく、薪そのものも藩の管理下に置かれ、使える量が厳しく制限されていたであろう当時のことを考えると、薪を効率よく使うためにも、焼成時間は短いほうが理にかなっている。また、唐津には砂岩が豊富にあり、枯渇する心配もない。当時の経済状況や時代背景を踏まえれば、無駄なものは自然と削ぎ落とされていくはずです。技術というのは、そうした行動原理から生まれるものだと、砂岩という原点に立ち返ることで、自分の中で腑に落ちたことは本当に大きかったです。
かつてファッションの世界に身を置いていた頃にも感じたことだが、政治的・経済的な制約の中で生まれた服の形や色の組み合わせは、往々にして、どんなアヴァンギャルドなデザイナーの仕事よりもエッジィであったりする。藩の統制下にあったであろう当時の陶工たちの中から、奥高麗や古唐津といった歴史に残る名作が生まれていたとしても、何ら不思議ではない。砂岩という原点に還ることで、当時の時代背景や思考の在り方を肌感覚で理解した安永さんの言葉には、確かな説得力がある。
そして安永さんの作品を語る上で欠かせないのが、その肌の美しさだ。唐津と聞くと、安易に侘び寂びと結び付けられがちだが、安永さんの作品は、全体としては確かに侘び寂びを湛えつつも、肌に目を向けると驚くほど生き生きとして、健康的で瑞々しい。
「私はよく『赤ちゃんのような肌』と表現するんですが、生命力のようなものがなければ侘び寂びとは言えないと思うんです。唐津焼を季節に例えると秋や冬のイメージですが、秋や冬は春があるから成り立つ。木々は枯れていても、幹の中には水が通い、次の春に向けて準備をしている。その前提があるからこそ、枯れが美しい。生命力を感じない侘びは、ただの死でしかない。その肌を作ることは本当に難しいですが、そこが一番重要だと考えています」

私自身は、その肌を「汗をかいた人間の肌」に例えることが多い。
安っぽいテカテカした光でもなく、完全にマットでもない。皮膚の奥から滲み出るような、粘度を伴った輝きこそが、茶盌の美しさと色気の核心だと確信している。桃山でも唐津でも古作を見て、それを現代にそのまま再現しようとすると、どうしても乾いたマットな表現になりがちだ。しかし、私たちが今目にしている古作の肌は、400年以上の時間を経て育まれた結果であり、作られた当初は、間違いなく艶を備えた瑞々しい肌だったはずである。
だからこそ正直に言えば、唐津焼の中でも無地唐津や絵唐津は、数ある作風の中でもその魅力を伝えるのが最も難しい分野の一つだと思っている。唐津のイメージは侘び寂びだが、それはあくまで、美術館や図録で目にする「使われ、育った唐津」であって、生まれたばかりの唐津は、育った先を想像できなければ、味気なく見えてしまうこともある。そもそも奥高麗のように、使われることで名称や格が変わっていくことがある世界なのだ。そういう意味で唐津は、育む余地を極限まで残した作風だと言える。その中で、敢えて古風に見えるものを狙わず、生まれたての肌に明確に狙いを定め、育む余地を存分に残した作品を作り続ける安永頼山の仕事は、唐津焼に対して極めて誠実で、潔い。
「人間なので自分を大きく見せたり、カッコつけたいと思う時もあります。ただ大切なのは結局いかに自分を素直に出していくか。それが一番難しく、そして大切なことであると思っています。わかりにくい仕事だと理解していますが、そこが本質であると感じている今は、それを続けていこうと思います。」
昨年の漢盌の時に安永さんは
「良いものを見ると制作意欲が刺激されます。良い事ではあるのですが、同時に負けられないという感情も湧き上がってきます。この負けられないという思いが作品にある種の力強さのようなものを付与しもしますが、反面どこか肩肘張ったこれ見よがしな雰囲気に繋がる事もあります。常のように淡々と仕事をこなす中で自ずからに良いものが出来てくればそれが一番だと思います。」
と私に語った。安永さんは、炎や土と戦いながら、最後は本質=自分と戦っているんだと心から思った。流行に迎合することもなく、復元に安住することもなく、砂岩という原点に立ち返り、削ぎ落とし、生活そのものを器に映す。
安永頼山の茶盌は、他の何かに例えることができない。
それはただひたすらに、──Be authentic
誠実であろうとする姿勢そのものが形になった存在なのである。