Daydream believer in 丹波 今西公彦インタビュー
by 森一馬もう1年以上前だったか、毎日チャットするほど仲良くさせていただいている海外のお客様から「ところでMasahiko Imanishiは取り扱わないのか?」というチャットが飛んできた。酒器は持っていたが、その時はまだ今西さんの茶碗に直接触れたことがなかったため、「茶碗を持ってみて考えるよ」といった感じで返信したと思うのだが、持っている黒丹波ぐい呑の味わい深さから察するに、おそらく茶碗も実物を拝見したら欲しくて仕方なくなるのだろうなと思っていた。
今年に入りそういった機会に恵まれ、手にした茶碗に興奮しながら、ようやく今西さんとようやくコンタクトを取ることができた。なんとファーストコンタクトは電話にて2時間、みっちり語らせていただいた。丹波とは何か、その答えを求め、山に入り、夢想する。そんな求道者にあるべくルーティンを、今西さんは「こんな毎日中二病みたいなことばっかりやってるんですわ。」と照れながら自嘲する。まさしくデイドリームビリーバーインタンバ。しかし、そうして出来た茶盌から景色を感じ自然を想像し、ぐい呑を指でなでながら話しかける我々陶磁器愛好家もまさしくデイドリームビリーバー。なんで今の今まで今西さんにコンタクトを取らなかったのかと後悔するほど、筆者としては話すほどに楽しく、巌流島辺りでずっと話してていいよと言われたらレフェリーストップがかかるまで延々話していられるようなナイスガイ。そして同時に、何としても彼の思いを多くの人に届けなくてはという使命感のようなものを強く勝手に感じ、すかさず丹波へ。
平安末に東海地方から技術が渡り始まったと考えられる丹波焼。今西さんは、官庁や寺社仏閣へ収める三筋壺や菊花紋の壺等を多く所蔵する、篠山にある丹波古陶館へ足繁く通い、平安末から鎌倉、室町へと続く丹波の壺とそれぞれじっくりと対峙し、そしてその時代を感じるため山に入る。「なぜそこにその時代に窯が作られたのかとか、それがどのような場所なのか、当時の陶工は何を考えていたのかなど、時代ごとの窯跡の周りを歩きながら実際に体感していくといろいろな事がわかってくる。ただその時代のものを技術的に作るというのではなく、時代背景やプロセスを自分なりに理解し、想像することで、その時代の陶工と繋がっていられる。それが何より嬉しくて、楽しいんです。何世紀か後に自分の作品が古陶館に令和の古丹波作品として展示されたいなぁなんて思っています。」
工房横に作られたギャラリー。洞窟のような 空間に、奥には茶室が設けられている。今西さん曰く「僕の中二病の極み」
丹波の、いわゆる窯元の次男として生まれ育った今西さん、そういった環境下で大量生産の器には全く興味が無く、山で拾ってきた風化した木の切れ端や錆びたトタンの破片を集めていたという。窯元を手伝うため、京都の工業試験場へ通っていた際に、とあるきっかけで作家としてやっていきたいと決意。美濃や唐津など様々な作風に興味を持って行く中で、自分が生まれ育った丹波の焼き物、丹波焼とは何かを追求するようになる。「備前や唐津に触れ色々と模索する中で地元に目を向けた時、丹波にも平安末から続く歴史と素晴らしい仕事があったんだと徐々にわかってきて。すぐ近くには須恵器の窯跡もあるのですが、そういった環境下で丹波焼という独自の焼き物が長年かけて確立していったというのは、やはり丹波で生まれた自分にとっても誇らしきこと。地元にそんな素晴らしい文化があるのなら、自分がそれを繋いで行きたいという、今ではある意味使命感のようなものも感じています。」
古丹波と対峙し、土や窯詰めまで全てをシュミレーションして、いわゆる「整って」から窯焚きに入る。窯焚きは、毎回毎回真剣勝負であり、心に曇りがあっては戦えないと今西さんは言う。「自分で納得した上で勝負したいというか、そうじゃないと戦えないんですよね。大切なのは繋がりであって、例えば鎌倉初期の作風にインスパイアされるのであれば、その時代の陶工の思いや考えを自分なりに汲み取って、解釈する。それが自分の中で再構築されて、作品として現れるイメージですね。」
ここ10年以上壺造りに全力を捧げて来た。そして昨年ごろより茶碗により集中するようになる。長く茶道も続けられている今西さん、古丹波にはほぼ存在しない茶碗というものをこの地で作ることにどのような思いがあるのか。「丹波焼は紋様などから察するに、当時の末法思想が反映されていると同時に、一族の繁栄や長寿など、そういったいわゆる「祈り」が込められていると感じます。その祈りを掌で感じることができるのは陶芸においてやはり茶碗。技術的なことではなく、壺に込める祈りの精神みたいなものを茶碗に写せたらと考え、日々茶碗を作っています。」
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当店ではたくさんの作家の茶碗を取り扱っているが、今西さんの茶碗はお世辞にも扱いやすいとは言い難い。それなりの重さもあり、茶巾も通りづらく、また見込みもフラットではなく、ましてやフリモノがそのまま残るものもある。茶碗屋の店主としては通常そういった作品は避けて通りがちなのだが、なぜか今西さんの作品を使ってみると、そういったデメリットを感じないというか、むしろワタシを使いこなせないなんてまだまだねと言われているかのような、そんな不思議な気持ちになる。そして茶碗を撫で回していると【自然はそんなにいつも優しいものじゃないし、敵にも味方にもなるんだから、自然とは常に真剣に対峙しなさい】と茶碗の声が聞こえてくるような、そんな感覚に襲われた。そんなことを今西さんに言ったらきっと「森さん、あなた完全に中二病ですね。」と言われそうだなと夜な夜な一人でニヤつきながら、夜に見る彼の茶碗は格別だなとしみじみと感じるのであった。