コンクリートに魅せられた孤高のアーティスト ~泉田之也インタビュー~
by 森一馬焼締めでありながらどこか都会的で、見たこともないような襞のある歪んだ茶碗。泉田之也先生の積層盌を初めて見た時の感想だ。瞬時に惹かれ、駆けつけた三陸の海岸沿いの町、野田村にあるギャラリーは、なるほど、この辺りでは最も都会的であろうお洒落な建築。そして初めてお会いした泉田先生は、クールで物静かながら湧き出る情熱を抑えきれないほどパッションに満ち溢れたアーティストといったイメージだ。ギャラリーには大量のオブジェ作品が、出荷の時を待ち並べられている。「これ明日中国に送るんですよ。こっちはアメリカに。」と仰る泉田先生の作品は、世界各国に飛ぶように売れていく。そんな人気作家である泉田先生の情熱の源はまさかのコンクリートに!?1時間半にも及ぶ超ロングインタビュー。
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海が近くて夏は最高の環境ですね。
それが、、、「やませ」って知ってます?三陸独特の低層雲なんですけど、夏には実はそれが霧みたいに海の方から上がってくるんですよ。そうすると一気に温度が10度以上下がってきて、暑かったのが急に寒くなっちゃって。せっかく海に出てもやませが来たーって10分で帰んなきゃいけなかったりするんですよね(笑)
やませは初めて聞きました。生まれはこの辺りなんですか?
岩手の陸前高田で生まれました。18までそちらにいて、大学で上京しました。大学は普通に経済学科を出て、住宅メーカーに就職しました。
そうなんですね、たしかに、元々サラリーマンだったと聞いていました。
はい、25歳までその東京の住宅メーカーでサラリーマンをしていました。
ではその頃までは特に工芸などに興味はなかったんですか?
いえ、小さい頃から毎日絵を描いたり、粘土いじりしたりするのは大好きで。美術の成績が良かったので、高校の先生にも美大を進められたのですが、それで食べていけるとは思っていなかったので、堅実にサラリーマンの道へ進みました。
しかし陶芸に進まれたということは、東京でのサラリーマン生活に疲れたのでしょうか?(笑)
それもあります(笑)。まぁ營業でしたので、毎日数字を追って、締日までに売上目標をこなしてという毎日に疲れてきたんですね。友達とかと飲んでストレス発散したりしてましたが、そういう毎日にも飽きてきてしまい。どんどん自分が無くなっていく感じがしたんですね。
そこから陶芸の道に入られたのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
そうですね、サラリーマンをしながら絵を描いたり、油粘土で自分の手を作ったり脚を作ったり、そういうことはやってまして。そうしているうちに何でも良いからものを作る仕事をしたいなと漠然と思うようになって。そんな中、たまたまなんですが一緒にいた友達がふと「田舎帰って壺でも焼くかな」と言ったんですね。その一言で「壺、いいな」と思って(笑)
そんな一言で(笑)
はい、それで壺なら陶芸か、と思って、ある時ふと陶芸の雑誌を見たら、たまたま表現をできるような作品を見てしまって。陶芸というと実用するイメージがあったんですが、そうじゃない、表現できる陶芸があるんだと思って。それであれば最初に下積みして技術を身につけて、独立したら色々と表現みたいなこともできるのかなって、そんな結構安易な考えから陶芸をやりたいなと少しずつ思ってきて。
それでサラリーマンを辞めて、陶芸の技術を身につけるため岩手に戻られるのですか?
サラリーマン辞めてから少しの間、土建屋でバイトしたんですよ。父の口利きで半年ぐらいだったんですが、現場監督みたいなことをやってて。ダムを作ったり、毎日コンクリートを使うんですが、そこでコンクリートって面白いなと思って。
ほう、コンクリートですか。
お金を貯めるためその仕事をやったんですが、コンクリートが面白いからそのまま就職してもいいかなと思ったりするぐらいで。
コンクリートが面白いって、むしろその発想が面白いですよ(笑)
コンクリートって、実は今の作品の質感に凄く通ずるものがあって。凄い泥状のものが固まって、型に押し当てられて、型外すとコンクリートの圧縮された面が見えるじゃないですか。たまにちゃんと入らないでボコボコしたり、その質感が面白くて。
あーなんとなく掴めた、石ハゼっぽい感じですか?(笑)
そうそう(笑)ほんとにまさにそういう感じ。
それでギャラリーもコンクリートなんですか?
いえ、実はこれモルタルなんですよ。住宅メーカーで建築もかじったんですが、モルタルをしごくっていうんですけど、鏝で磨き上げたモルタルの表面が好きで。自分でギャラリー持つ時はそれ使いたいなってずっと思ってました。
そうなんですね。そういえばうちもコンクリート打ちっぱなしなんですが、確かに考えてみたら焼締めみたいに見えるのかもしれない(笑)
そうそう(笑)似てるんですよ。
思い返してみると僕は若い頃、谷口吉生さんの建築が好きで、色々コンクリート建築見に行きましたね。法隆寺宝物館とか、猪熊弦一郎現代美術館とか。安藤忠雄さんとかもコンクリート使いますもんね。
そうそう、やっぱりデザインする建築家にとって、いわゆる作られた建材はあまり心に響かなくて、素材感があるもの使いたいんだと思います。僕も素材感あるものが大好きで、その時その時で変化していくものに惹かれます。
そういうことなんですね。そっか、自分もなんとなく打ちっぱなしの家に住んでますが、昔の木造か打ちっぱなし以外の選択肢がなかったのは、無意識でコンクリートがかっこいいと思っているからなんでしょうね。木造もコンクリートも経年変化すると雰囲気が出ますが、普通の建材だとただ古くなるだけみたいな。面白いです。
建材だけだと面白みに欠けるのはそういうことなんですよね。それでコンクリートに惹かれながらも、やっぱり陶芸学びたいから辞めなきゃと決心して、辞めて。
それでその後小久慈に?
その前に2, 3ヶ月、鉢を買ってきて家で一人で土器みたいなものを焼いていました。それから陶芸教室に通い始めたら、うちの祖母のお茶飲み友達が、小久慈焼の建物を建てた大工さんと親戚で、その人に紹介してもらって小久慈焼に弟子入りしました。
私も先程行きましたが、あの小久慈焼の工房にいらっしゃったんですね。
あそこに3年いました。ほんとに一から教えてもらって。穴窯の焼成からなにから一通り学んで。
3年目で独立ですか?
そう、たまたま今の窯である野田窯が、元々村の施設で運営してた窯だったんですが、そこが空き窯になったんですよね。それで誰か入ってくれないかということで。とにかくお金もいらないから、いてくれればいいからみたいに言われて、こんないい話は無いなと思って。
そうなんですね、それでこの場所に引っ越されたんですか?
最初は工房の屋根裏に住んで、陶芸漬けの毎日の始まり。
原始的生活ですね(笑)
あはは(笑)でもサラリーマン時代にそういう生活に憧れていたので、楽しくやっていました。
最初はどのように作品を広げていったんですか?
発表する場所もなにもないので、村の記念品に使ってもらったりだとか、朝市に出したりとか。人参と並んで焼き物売ってました(笑)
本当に一からのスタートって感じだったんですね。
うちの師匠もデパートで個展するとかそういう人ではなく、全部物産展周りだったので、それが普通だと思ってたんですよ。この辺りだとどうやったらギャラリーでできるのかとか、誰も知らないんですよ(笑)
そうですよね、たしかに美濃とか唐津とかそういう文化がある場所であれば、何かしら周りからキッカケがつかめるでしょうけど、そうじゃない場所だと誰も知らないですよね(笑)
知らないから、しょうがないから道端で売ることから初めて、同時に物産展周りして、とにかく見てもらおうということで色々出していくうちに、少しずつ「うちでやらないか?」という場所が増えてきたんです。
それでどんどん出せる場所が増えていくんですね。
はい、でもそれは食べるための部分の活動で、それと同時に自分の作品を発表したいと思い、朝日陶芸展とか、日本工芸展とかそういう公募展に出して、何年も落ち続けたんですよ。それが30過ぎたあたりで、いきなり朝日陶芸展でグランプリを取っちゃって。
えー、毎回入選もしなかったのにですか?
5回ぐらい選外だったのが、いきなりグランプリになって。実は弟子時代にも全国的な公募展で一度だけ入選してて、それもあって独立も早かったんですが、独立したら落ち続けて。
それでいきなりグランプリですか?波が凄い(笑)その落ち続けた間は物産展とかそっちのほうでは売れていたんですか?
食べる方のことで言えば、なぜか生活は困らなかったんですよね。観光バスなんかが立ち寄る施設の一角で小さく売ったりしてたのですが、毎日人が来る分作品も売れていて、そこは困らなかった。基本的に食べる分をしっかり頑張れば、その余力で好きなことができるという考えなもんですから。好きなことやるために、そっちも頑張るぞと。
食べるためといえば、泉田先生はすり鉢が有名ですよね。
すり鉢はまさにその食べる部分を充実しようと考えて作っていったんですよ。自分がすり鉢が好きというのもあったんですが、元々小久慈のすり鉢って口がついてなくて、独立したら口を付けようと思って。擦った後にそのまま別の器に移したりできるし、あとデザインも自分目線でカッコいいと思うものを作っていったら、たまたま色んな雑誌で取り上げてもらえて、広がっていって。今でも注文が来るので、食べる部分で支えになっています。
ちゃんと食べる部分、表現する部分を分けて考えて実現している、素晴らしいですね。
直感として、ものづくりだから食えないっていうわけではなくて、どうやったら食えるのかという部分だけを必死に試行錯誤するのは凄く大事なことで、そこをとにかく確保する、そして生きていればまず最低限良いわけで。その先に、もっとアートっぽいといいますか、もっと自分らしいものをと突き詰めて行く、その両極をやっていけば絶対に将来それなりの結果が残せるなと、それがものづくりを始める際に見通してた直感だったんですよ。
直感、、、凄いことを考えてますね。一から自分で積み上げて来た方から聞くと凄く説得力があります。それで公募展でグランプリ取られて、ご自身の表現のほうの作品も広がっていきましたか?
そうですね、1度だけではそんなに反応はなかったのですが、2回目取った辺りから東京のギャラリーが声をかけてくれるようになりました。35歳ぐらいの時でしょうか。25のときに会社を辞めて、もう東京に二度と来ることは無いなと思ってたのですが、10年経って変な形で戻ってきて(笑)
まさかの帰京でしたね(笑)それから今のように個展をされるようになって行くのですね。食べる部分とアートの部分、両方をしっかり実践されている。
逞しいとよく言われますが、基本だと思うんですよ。生きるということを実感するというのは。動物でも何でも、食べることに必死なわけじゃないですか。人間もまずはそこで、でもじゃあ食えればいいのかっていうと、そうじゃないんですよね人間の場合は。その先に色んなものを求めるんですが、そこに何を求めるかがその人のセンスなわけで。そこでより自分らしいものだったり、良心に照らし合わせたものを素直に表現して、精神性を高めていくと、さらに良い方向に物事が進むということに気づいていって。
確かに、アートのほうの質が上がると広がるし、値段も上がるし、結果食べるのも楽になる。
そう、アート作品って無限の可能性を持ってると思うんですよ。値段もあって無いようなものだし、要はその人がその作家の作ったものに共感したり、置きたいって思うかどうか、それに対してその対価を払うかどうかなので、精神性を高めれば高めるほどその価値は上がってくると思っています。
(HOTEL THE MITSUI KYOTOに展示されているオブジェ作品)
仰るとおりだと思います。アートって相場が無い分、いろいろな可能性がありますよね。それで東京のギャラリーで何度か個展をやって、それから百貨店とかでやり始めたのですか?
はい、最初にやらせてもらった百貨店は京王百貨店の工芸サロンで、隔年でやらせていただいていたのですが、そうしているうちに伊勢崎淳さんがいらして、オブジェを買ってくださって。
えー、凄い!
岡山来ることあったら寄ってねって言ってくださり、それから親交があってお食事したり、飲んだり。
凄いですね、同じ焼締めという中で通ずるものがあったんでしょうね。
はい、嬉しいことに工房に飾っていただいているようです。しかもこれも偶然なんですが、私の知り合いの建築家が、息子さんの伊勢崎晃一郎くんの家を建ててて。
まさかの!繋がってますねー、しかもうち、ジェフシャピロさん取り扱う予定なんですよ(笑)
あ、そうなんですか(笑)晃一郎くんの師匠ですよね。
色々つながってますねー!その頃はすでに積層の作品はつくられていたのでしょうか?
その辺りがちょうど積層の始まりの時期で、最初は折り紙のようなものをやっていました。四角いへんこのような作品に何枚か積層を重ねていたんですが、だんだんと積層だけになっていって。それをアメリカで発表したら爆発的に広がって。
アメリカで最初に広がったんですね。海外で初めて個展をされたのはいつですか?
2009年にアメリカのサンタフェで個展をしたんですね。その時にオブジェを色々と出して、5年ぐらい完売が続いて。そういった経緯でコレクターがついてくださって。
今でもアメリカでは完売続きなんですよね。凄い。
嬉しいことに、新作は特にすぐに全て売れていきます。
海外といえば中国にもものすごく売れてますよね。最初は中国人が泉田先生の蓋物を茶盤と見立てたたとか。
そうなんです。2015年ぐらいに日本の侘び寂びが中国で流行りだしたみたいで、積層の蓋物って蓋の積層の部分に穴が空いてて、そこに掛けたお湯が流れるってことで茶盤として中国で使われて。そのままぐい呑も茶杯と名付けて使われて。
中国茶用に制作したわけではなく?
はい、中国用にと作ったものは特に無くて、元々作ってたぐい呑とかそういうものを中国人が見立ててくれてます。
昔は唐物を日本で見立てたのに、逆の現象が起こっている。面白いですね。オブジェも積層のものが人気ですか?
そうですね、折り紙みたいに重ねたものが良く売れていっています。
あれは最初見た時衝撃でした。質感も和紙のような雰囲気もあって。
和紙も実際使ってるんですよ。あの作品作る際、自分らしいものってなんだろうって考えた時に、コンクリートに戻っちゃったんですね。手で押した面ではなく、型のほうに押し当てられた面が面白いって感じて。何かに押し当てられた面の圧力とか、そういうものが風景になって、色んな広がりを感じたんですよね。
現在はアート作品のほうではいわゆるオブジェ作品と、お茶碗やぐい呑等の器を作られていますが、それぞれ考えに違いはあったりしますか?
基本的には自分らしいものという意味では変わらないのですが、オブジェって使える部分が少ない分、何にも縛られないという開放感みたいな部分があって。制約も何も受けないんだけれども、それを置いてるだけで良いというのは、究極それって祈りの形みたいなものじゃないですか。
深い
そう考えると、オブジェも用途はないとは言わないんですよね。飾るという用途はあるわけで、精神的な肥やしにはなるっていう、そこに近づくような作品作りをアートの方は目指しています。
実際に水を入れて使うとかそういわけじゃないですが、そこに存在してるだけで使われていると。
例えば茶碗でも、使い方わからない人にとってはオブジェなんですよ。置きたいという人が心が豊かになればそれで使われているんですよね。
確かにそうですね。日本だと茶碗なんかは茶道具として使われるという前提がありますが、海外だとそうではない。
ほんとに自分が何も制約無い中でこう作りたいと表現したものを、そのまま受け入れてくれるのが本当に面白くて。それがここでこうじゃないといけないといった制約が出てくると、作る際に萎縮してくるんですよね。
茶道具なんかは日本ではそういった面はありますよね、お茶会のための茶道具という前提もありますし。
その辺りは、そういった要望に合わせて作る陶工さんとか職人さんがいるんですよね。そういう職人に任せれば良い話で。作家はやっぱり誰も作れないものを世の中に出して初めて作家なので、伸び伸びとやったほうが良いと私は思います。
茶碗なんかで影響を受けたものはあるんですか?
高校の教科書に載ってたのが長次郎の黒茶碗と、黒織部の沓茶碗で。それを初めて見た時にどちらも衝撃で。長次郎の茶碗はカセた釉の感じの質感が素晴らしくて。手びねりで作った口の作り、こんなもんでいいやって無造作な感じなんですが、それが人が作ったような感じがしない、元々あったもののような感じがしたんですよね。逆に黒織部のほうは、完全に意図的に歪めてるんだけども、味があったり面白さがある。その時感じたことが今でもずっと残ってますね。
泉田先生の積層の茶碗を見た時、まさにカセた雰囲気にまず惹かれ、その後黒茶碗ぽいフォルムを感じました。
小さい頃からカセたものとか経年変化が大好きで。干からびた新巻鮭とか干し魚とか、朽ちた寺院の土台なんかをじぃっと見てて楽しかったんですよ。そういう朽ちていきながらも果てずに存在し続けようという姿といいますか、あと経年で変わっていくその時間の感覚とか、子供ながらにそういうものを感じたと思うんですね。それが長次郎の茶碗を見たときの感動に繋がって、そういう残像が自分の中に残っていると思います。意識的にそう作ってるわけではないですが、長次郎は最も共感した茶碗なので、それが無意識で作品に反映されているんでしょう。その後も色々桃山陶なんかも作ったり、唐九郎にハマった時期は唐九郎の真似して土食ったりして腹痛くなったり(笑)
爆笑
窯の構造も唐九郎と同じようにしたんですよ。写真で見た感じですが、それを真似て作りました。
そうなんですね(笑)土を食べるは相当面白いです(笑)しかしやっぱり残ったのは長次郎なのですね。その他にオブジェなんかで影響を受けたと思われる作品はありますか?
いつか美術館に行った時、加守田章二さんの曲線彫文のへんこを見て、生まれてはじめて手を合わせたくなったんですよね。祈りたくなるような気持ちというか。その彫刻的な線やフォルム、質感がとても人間業と思えなくて、元々どこかから結晶みたいに出てきたんじゃないかなと思えて。後にも先にもそんな風に感じた作品は無くて。
確かに、加守田章二さんの作品は陶芸を超えたものといいますか、芸術と遺跡の間のよな、ナスカの地上絵のようなものを感じると言いますか。
そうそう、そういったレベルの話で、作品の中に風景としての広がりがあるんですよね。そういう作品にあこがれて、オブジェ作る中でどこかでそういった影響を受けていると思います。
最後に、作品を持っている方にどのように楽しんで欲しいですか?
具体的な形は無く、むしろ器であっても飾ってもらってもいいし、茶碗であっても抹茶じゃないものを入れて楽しんでもらってもいいし、こうしなきゃああしなきゃじゃなく自由に使ってもらいたいと思います。作品を作ったのは私ですが、育てていくのはお客さんだという考えですよね。
素晴らしい。積層の作品とか使っていったら変わっていきそうですもんね。
そうそう、そこからまた可能性が広がっていく。そうやって変わっていったらもう私の手からは完全に離れて、自立した一個の存在と成るわけで。
そう考えたらお客さんも制作じゃないですけど、その育っていく過程に参加している
私は大いにそれがあると思っていて。愛でてあげる、銘をつけたり、使ってあげて、そうしたらその子が喜んでまた育っていくんじゃないかなと思っています。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
日本のような同調圧力が強い国において、何か人と違うものが好きであるとか、良いと思うものに素直であるということは、簡単なようで意外に難しい。干からびた新巻き鮭を美しいと思うとか、コンクリートに押し当てられた面に魅了されたりとか、恐らく誰にでも風変わりなフェティシズムはあるのだろうが、そこに素直であろうと思わない故にそこから先には広がらない。そんな素直でいられない自分をサラリーマン時代に全て置いて来て、陶芸家に転身してからは好きなものや美しいと思うものに素直であればあるほど、どんどん作品の価値も上がっていくという、いわば正しすぎるスパイラルの真っ只中に、泉田先生はいる。取材する中で「制約がない」という言葉を先生は何度も繰り返し仰っていたが、アートとは本来そういうものであり、あらゆる自由の中から何かを表現するもの。手足を縛られていたサラリーマン時代を経験している泉田先生は、人一倍そういった自由への想いが強いのだろう。そしてやはり「自分の表現に素直であること」と、「常に精神性を高めること」その二つの言葉が筆者の心にも強く刺さり、今後生きていく上で非常にためになるワードであると直感的に感じた。作り手と選び手が、切磋琢磨し合いながら高め合えるストアを目指し、私達も精神性を高めて彗眼を極めて行かなくてはと思えるような、とても有意義なインタビューだった。