越前焼・西浦武を訪ねて
by 森一馬1年ほど前、ある骨董市で窯変の美しい焼締めの抹茶椀と偶然に出会い、大変気に入り連れ帰り、それ以来自服用として日々愛用している。作陶歴はなく、箱書きには「越前茶碗・武」と書かれており、特に作家について検索するでもなくしばらく使っていたのだが、地元の金沢からほど近い越前焼がなんとなく気になり出し調べてみたところ、探り当てた作家のその特異な経歴に思わず声をあげてしまった。
西浦武さん。六古窯の一つ、越前焼を代表する名工。そしてなんと、泣く子も黙る東京大学法学部出身の陶芸家。一瞬東大?藝大じゃないのか?と目を疑ったが、やはり何度見ても東大。作品にも作家にも溢れる興味が止まらず、すぐに作家に連絡しアポイントを取り、伺わせていただいた。
「東大出身なんてそんな大したものでもなく、流されて入っただけなんですよ。」とそんなことを言われても全く腑に落ちないが、西浦さんは福井県敦賀市出身。東京の名門、戸山高等学校を卒業後、そのまま東京大学法学部法律学科へ進学。当時戸山高校では1学年100人以上の卒業生が東大に進学していたようで、「周りがみんな東大に行くからついていったようなもので。でも全く勉強しないで、6年間かけて卒業しました。間違えて入っちゃったんだね。」と話す。間違えでもエラーでも何でもいいから、一度でも東大に入れる頭脳を持ってみたいものであるが、大学時代に陶芸サークルなどに所属されていたとかそういうこともなく、卒業後はサラリーマンに。「サラリーマンする能力が私にはなかったから、辞めて福井に実家に戻ってきて。」と謙虚な西浦さん。しかしその帰郷が陶芸を始めるきっかけになった。
「近くの越前陶芸村で陶芸をやっている知り合いに連れられて、行ってみたら、あぁこういうのもあるんだと。なんとなく浅はかな気持ちでやってみたら、少しずつ面白くなってね。」西浦さんの窯からほど近く、丹生郡にある陶芸村、そこにたまたま行ったことで、西浦さんの陶芸家への道がスタートした。「どこかに務めるのではなく、こういう生き方もあるんだってことをそこで知って。33才の時でした。気づいたら50年やってますが、何一つ上手くならないですが。」と作家はどこまでも謙虚に語る。
そもそも越前焼という名は、六古窯に数えられ名は通っているが、現在ではその作風に、備前や信楽のように特に定まった手法やスタイルがあるわけではない。歴史を見てみると、須恵器に始まり常滑の技術を取り入れ、焼締めで割れない器として壺やすり鉢が日本中に流通し、室町時代に最盛期を迎えた。その後江戸時代にかけて装飾のある器の盛隆に押され、花器や酒器など様々な作風を取り入れはしたものの、茶陶などとの結びつきもなく、明治以降は衰退。しかし戦後、越前焼を研究した水野九右衛門先生のもとを、当時六古窯を提唱していた小山冨士夫先生が訪れ、それから徐々に研究が進み、1948年に六古窯の一つとして数えられ、越前焼の名は全国に知れわたった。その後丹生郡に前述の陶芸村が作られ、県が中心となり全国から多くの陶工を迎え入れた。「私が陶芸を始める少し前に木村盛和先生が京都から福井に移住なさって、勉強会などで色々と学ばせていただきました。越前には今は60ほどの窯元がありますが、瀬戸や美濃のように何代目というような窯元は存在せず、作風もこれといったものはなく、穴窯から電気、ガス、幅広い陶芸家たちが越前の土を使って、思い思いに造っています。」と語る西浦さん。
そんな作家が今力を入れている作風が、ここ数年手掛けてきた碧砂釉と名付けられたオリジナル作品だ。薪窯で焼締められた作品に、釉薬を掛けて二度目の焼成を行う際、溶けた鉄分が強還元により碧く窯変する。鉄分による赤い窯変と灰が特徴の伝統的な越前焼に対し、この碧砂釉は現代的で斬新、しかしいわゆる「釉薬もの」と言って我々がイメージするような軽やかなものとは全く異なり、重厚で深く、柔らかい。極上のシャリに極上の熟成マグロが乗ったようなという稚拙な表現では現役東大生にお叱りを受けそうだが、越前の素材の良さと名工の技術が合わさった極上の作品というより他に言葉が見つからない。銀河に雪が積もるような、現実ではあり得ない景色を楽しめる、まさにメタバース空間をも彷彿とさせる作品は、この地この場所でこの作家だからこそ生み出せる唯一無二の作品と言って良いだろう。
西浦さんの作品は海外、特にアメリカでは非常に人気が高く、時には正規価格の10倍以上の値段で取引されている。作品の美しさと手の込みよう、そして作家のキャリアを考えても、国内での正規価格は筆者の感覚ではどう考えてもリーズナブルである。しかし西浦さんは言う。「会社にお務めの人たちが少し贅沢な気分で買うことができるようなものでありたいんです。」
帰り際、少し躊躇いながらも持参した、筆者愛用の西浦さんの茶碗を、御本人に見て頂く。
「50年やっていて、自分の手から離れていった作品がこうして私の元に帰ってきたのは初めてです。いつ作ったものかはわからないですけど、こうして見てもやっぱり上手くないなぁとは思いますが、大事に使ってもらえてると思うととても励みになります。」と懐かしむようにお茶碗を撫でる西浦さん。
越前の名工はどこまでも謙虚だった。