美濃の土と自然への敬意×ルーツが生み出す新たな桃山陶~加藤亮太郎氏インタビュー~
by 森一馬初めて幸兵衛窯を訪れた時、そのスケールの大きさに度肝を抜かれた。先代の生み出した名品を惜しみなく展示するギャラリーに始まり、窯元作品の展示室、喫茶室、穴窯、また卓男先生や七代幸兵衛先生の巨大ラスター陶壁が展示されるギャラリーもあり、これはミシュラン二つ星も納得、陶芸好きでなくとも十分に遊べるテーマパークのような、まさしく美濃の顔と言うべき聖地。そのような環境で志野や瀬戸黒、織部などの桃山陶を生み出し続ける陶芸家、八代目の加藤亮太郎氏。椿手や瑠璃黒など桃山をベースに新たな作風をも生み出すクリエイティブな氏の心の奥には、美濃の土と自然への畏敬の念が消えない炎のように燃え続けていた。
幸兵衛窯という代々続く陶芸一家で育ち、陶芸をやらなくてはという使命感はありましたか?
いえ、全然使命感のようなものはなかったです。小さい頃はここが遊び場で、粘土遊びで怪獣やウルトラマンなんか作って、それを焼いてもらったり、父(七代加藤幸兵衛さん)が穴窯で焼くのを一緒に見たり、そういった空気を吸いながら育ったというぐらいのもので、歌舞伎の方ように小さい頃から仕込まれて、物心ついたときにはすでにそれをやっているといったような、そういった技術的なものを教えられたと言うことなかったです。
それではいつ頃から陶芸をやってみようと思ったのですか?
うちの場合は兄妹が妹3人で、男性が私だけなので、高校生ぐらいになって、自分の進むべき道を考え始めたころ、漠然と美術系の予備校に行き、美大の受験を考えました。幸いにしてモノを作ったり絵を書いたりすることが嫌いではなかったので、美術の世界には抵抗なく入れたのですが、ただ元々大学も陶芸だけではなく彫刻などの道に進みたかったです。しかし何のめぐり合わせか、受かったのが陶芸科(笑)。京都精華大学美術学部陶芸科に進みましたが、そこでもオブジェやインスタレーションばかり作っていました。お茶盌や器は私にとって身近すぎて興味が沸かなかったんですね。今考えると若気の至なのでしょうけど。
ずっと見て育ったからなのでしょうか
そう、あまりにも身近にありすぎたからなのかもしれませんが、そんなに新しく感じなくて、現代美術や演劇など、パフォーマンスみたいなことにも興味が向いていました。同じ焼き物でも今とは全く逆なことをやったり。
しかし今やられているのはまさに桃山のスタンダードだと思うのですが、そのように変わられたきっかけはあるのでしょうか?
京都で学生時代から茶道はやっていたというのもあるのですが、いざ自分が京都で陶芸を学んでから帰ってきて、色々とやるうちに、美濃と京都の焼き物の手法の違いにカルチャーショックを受けたということがありました。
それは技術的なものでしょうか?
京都は土が取れる場所ではないので、装飾やフォルム等最終的に作りたいものの形があり、そこに向かって積み上げていくような作り方なのですが、美濃は土が取れる場所なので、まずは土の吟味から始まって、土をどう料理して形作って、どう薬をかけてどう焼くのかという風に土から積み上げていくんですよね。
いわゆる作る思考が逆ということですね。
そう、美濃は自分が育ったルーツがある場所にもかかわらず、京都にいたことで、自分のふるさとを客観視出来るようになり、美濃焼の面白さに気づきました。そこであらためて自分の持つルーツの力、地域の力、ローカリズムが武器になると感じ初めました。
そこから茶盌などを作るようになったのですね。
茶盌というものが自分の性格に合っていると気づきました。自分の手の中で転がしながら作っていくというのが、本当に楽しいんですよね。それをわかりだしてからは茶盌作りに没頭し、気づいたら茶盌ばかり作るようになっていました。今は花器やオブジェ、酒器等も作っていますが、やはり茶盌が中心になっています。
瑠璃織部茶盌 2023
これだけ色々な作風を造られる中で、自分はこれだというものはあるのでしょうか?
いや、それは特にないんですよね。相撲で例えるなら志野と瀬戸黒が横綱格なんでしょうが、美濃っていうのはバリエーションの世界ということもあり、いろんな釉薬や形などを掛け合わせることでいくらでも新しいものを生み出すことができるんですね。もちろん伝統的な仕事はやった上での話ですが、掛け合わせ次第でこれからでも新しいものが生まれてくる可能性はいくらでもあると思っています。
瑠璃黒などは明らかに新しいものですよね。この作品はこういったものが出てくるという予想の上で作られているのでしょうか?
ある程度はそうですけれど、自分の作ったものの力と自然の炎の力というものが半々ぐらいで作品は出来上がってくると考えているので、やっぱり多くの場面で自分の予想を裏切ってくるんですよね。そこがまた面白い。私は、人を感動させるものというのは人間の力だけでは作りきれないのではないかと思っている部分があり、100%自分の力を出し切っても満足はするかもしれませんが、感動までいくためにはそこにプラスアルファが必要で、それはやはり自然の力だと思っています。そういった自分の力と自然の力を合わせることで、時に150%とか200%のものが生まれる時があるし、それが予想できない部分がとても楽しかったりします。
それはとても共感します。瑠璃黒もある意味では予想を裏切ってきたのでしょうか?
ある程度は青が出るとは予想していましたが、ここまでハッキリ三層の色に分かれるとまでは思っていませんでしたし、そこはやはり自然がもたらした部分だと思います。
この色の茶盌が今、伝統的なお茶室に用いられることを想像すると、江戸時代、カラフルな釉薬がなかった時に織部緑釉が出てきてみんな驚いたような、そんなことを想像してしまいます。まさに新しいものですよね。
これまである桃山の形や釉薬の中から、こういった新しいものも生み出せるということですね。今後もそういった挑戦はしていきたいと思っています。
織部も窯変していますよね。少し前に百貨店に出品されていた窯変織部の球体を見た時に私は凄く感動したのですが、織部を窯変させている人は他にいないと思います。
織部は本来、慶長の頃に登窯で焼かれていたもので、パッと焼いてサッと冷ますことで織部の綺麗な緑が出るのですが、いわゆる登窯ってそこまで灰がかかるような窯じゃないんですね。それを穴窯で焼いてみたのが窯変織部で。織部は普通、穴窯では焼けないと言われているのですが、私の穴窯(平成30年に亮太郎氏が設計、築窯)は割とさっと冷めるので、綺麗な緑も出て、しかも灰もかかるという織部が出来る条件が整っていたので、窯変織部のような他にないものを作ることができました。
穴窯で織部を焼く人自体がいないんですね。
はい、いないと思います。基本的に穴窯は志野とかを焼く窯なので、1週間ぐらいかけてゆっくり冷ますんですね。じわじわ冷めるということは織部の綺麗な色は本当は出なくて、濁っちゃうんですね。そこをうまく工夫することで、窯変織部のようなものが生まれてくるんです。
今後もこの美濃のスタイルを続けていきたいと思われますか?
メインストリームは桃山陶ですが、他にも書と融合したスタイルであったり、オブジェであったり、様々な引き出しは持っていたいと思っています。
亮太郎先生のSNS等を拝見する限り、作品は若い方にも受け入れられていると感じますが、いかがでしょう?
最近は若い方でお茶盌を好きという方や、ぐい呑にも興味があるという方が増えてきていると感じます。逆に森さんなんかはファッションもやられていますし、こういったことを若い世代に広げていただきたいと思っています。
そうですね、少しずつではありますが、陶芸に興味を持つ若い人は増えていると感じます。
古臭いとか敷居が高いとか思われがちな業界でもあり、そこは良くないと思っています。昔はお金持ちの人の話ですが、唐九郎さん(加藤唐九郎先生)のお茶盌を買うかフェラーリ買うかで悩む時代があったわけで。
本当ですか!?笑
そうなんですよ。かっこよさの基準というのが、フェラーリもかっこいいけどお茶盌もかっこいい。そういうレベルであって、それと同じが良いというわけじゃないけど、森さんみたいにファッションも見るけどお茶盌も好き、そういう垣根のない価値観が広がって行けば良いなと思います。
身の回りのものという意味では車もファッションも陶器も同じものですしね。
まさにそうで、自分のライフスタイルの中でどう生活を豊かにしていくかを考えた時に、ファッションもインテリアも同じ身の回りのものとして存在しているわけで。食べ物を入れる器であったり、お茶を飲む器であったり、そういった生活の中では実は欠かせないものに拘ることで、いかに心が豊かになるか、そこに気づいていただける方が増えれば良いなと思っています。
桃山陶を作る中で目標にしていることはありますか?
特にそういったことは無いですし、唐九郎さんや豊蔵さん(荒川豊蔵さん)の時代と現代はまた違うわけで。桃山時代のオーセンティックは好きですが、それをしっかり現代の解釈で自分の色を出して行きたいです。桃山時代に生み出せたものが今生み出せないということは無いと思っていますし、そのレベルを超えて行きたいと思っているからこそ、研究は必要ですし、窯を焚く回数も必要だと思います。
最後に、作品を手にした方にどのように楽しんでもらいたいですか?
お茶碗やぐい呑であれば、やはり使ってもらいたい。 器は使えば使うほど育つし、使い手の情が移ると、器に人格が芽生えて、パートナーになってくる。 面白いもんです。 人生の伴走者として、大事に育ててやって欲しいと思いますね。