松崎健・幹「遊心窯」インタビュー
by 森一馬「森さんに会いたがっている陶芸家がいますよ」という話を昨年よりチラホラ聞くようになった。こういう仕事をしていると、ありがたいことに様々な作家からDMやメールをいただくが、「会いたがっている」というと勝手な想像で何か求愛されているようで気恥ずかしくもあり、嬉しくもある。そして日本橋三越でのRoots初日に、彼は後関裕士さんに連れられ、現れた。
松崎幹さん。偉大すぎるお父様を持つ益子の陶芸家。「是非いつか、僕の作品を見てください。」という彼の求愛に誘われ、益子へ。
最高の環境である。益子といえば民芸やクラフトで有名だが、彼がこの素晴らしい環境で作り出すのは美濃や信楽の灰被作品。「父の作品を見て育ったので、自然とそういう作風を作りたいと思うようになりました。」という幹さん。写真家を目指し学生時代はオハイオ・ボストン等アメリカで過ごし、帰国してからは益子の風景や、お父様の作品を始め、様々な陶芸家の作品も撮るようになった。そうしているうちに、器の持つ魅力に気づきはじめる。
益子の自然を收めた幹さんの写真作品。
「作品を撮る時、どうしたら良く撮れるのかと客観的に作品に向き合っていく中で、作家が器を用いて何かを表現しているんだということに初めて気付いたというか。それまで家でも父の作品があるのが当たり前の状況だったので、逆にそういったことに気づかなかったんですね。それに気づいた時、陶芸って面白いんだなと思って。それで父に、次何焚くの?土は何使うの?とか少しずつ色々聞くようになって。土遊びの延長でしたが、そうしているうちに作ることが楽しくなってきて、2018年頃から本格的に作品づくりを始めました。」
長い海外での生活や、写真という焼き物とは別のジャンルを突き詰めたバックグラウンドを持つ幹さんは、ご自身のそういった部分を活かす上で、陶芸以外のものからインスパイアされる重要性について語る。「茶道は経験し、最低限の約束事は知った上で、でも陶芸として誰か、またどの時代のどれを目指すといったものは意識しないようにしています。むしろ写真や絵画、木工など他の分野からインスパイアされながら、それを陶芸で表現するといったことが出来たらと思っています。陶芸家では吉見螢石さんが好きです。書から入られたということで、他の作家とは違ったエッセンスを感じます。」
偉大なお父様から何かアドバイスを受けたりはするのだろうか。「いえ、父からは作品に対して何か言われるということはありませんし、むしろこれまで陶芸をやれとかそういうことを言われたことも全く無いんです。もちろん技術的なことで教わったりすることはありますし、窯も一緒に焚いたりしますが、僕の作品については、どう思っているんでしょうね笑」
お父様が偉大で、息子さんが写真家出身といえば、若尾利貞さん・経さん親子と全く同じである。経さんは利貞先生を「同志」と例えたが、幹さんとお父様の関係もそれに近い距離感を感じる。唯一違うのは環境。美濃を拠点とする若尾さんに対し、松崎さんは益子で美濃焼等に挑んでいる。その辺りの苦労はなかったのか。
「やはり展示会の時に、なぜ益子で美濃や信楽をやっているの?と聞かれることもあります。ただ、今はそういった作家も多いので、それほどネガティブな反応はないですが。父の時代は色々とあったと思います。そういったことも直接聞いたことは無いですが。」
そんな話をしていたら、なんとお父様がすっと現れ、、、突然の【世界のMATSUZAKI】の登場に驚いたが、しかし健先生は気さくに話してくださった。「それはもう村八分ですよ。私は島岡先生の元で修行を終え、15年はいわゆる益子風のものを作っていました。でもそれをやっていたらいつまでも師匠を超えられない。それなら自分のやりたいことをやってみようと。私は唐九郎先生が好きだったので、織部・志野を独自に作り出しました。そしたらそれから3年間、島岡先生は口も聞いてくれませんでした。そして益子からは無視をされ。それでもやはり好きなものを作りたいし、そういう気持ちを持っていなければ続けられなかったですよね。」
偉大なる松崎健さんにそのような苦悩があったとは驚きだ。村八分の中黙々と炎と向き合う日々が続いたが、その後とあるきっかけでロンドン、ボストン等で展示をした際に作品が完売。非常に高い評価を受け、現在も毎年海外でワークショップ、展示会を開かれている。
そんな健先生の作品の中で、筆者心を鷲掴みにしたのが「金志埜」だ。
黄金に輝くボディに、なんと表面がラスターで覆われている。見る角度で様々な色に光る七色の黄金茶盌。感激する筆者に、健先生は語る。「唐九郎先生の紫志野を再現したくて、あの色を出すには還元で炊きおろしをする必要があるのですが、それを薪でやるのは難しく、そこで私は炭を使ってやってみようと。少しずつ炭の料を増やしていったらようやく紫色が出るようになったのですが、更にどんどん炭を足したらどうなるかと思い続けていくと、ある時表面が高温金化してラスターが出たんです。それがこの金志埜に繋がりました。」
桃山へ還るか、唐九郎の先へ。志野を作る現代の陶芸家は常にそのしがらみの中でもがいているように感じていた筆者だが、益子の地でその先が見られるとは夢にも思わなかった。「志野も鉄志野、そして紫志野へと唐九郎先生がそこまでは進化させましたが、その先は見えていなかった。金志埜がそうであると感じていただけるのであれば、私もとても嬉しいです。」
話は変わるが、我々は洋服を着て生活をしている。洋服と言うだけあって、洋物の服である。今、それは当たり前となっているが、洋服が日本に浸透する明治時代、一部では「鬼や悪魔が着るもの」と遠ざけられたりもしていた。しかし時代は代わり今や海外で人気の日本のファッションブランドがたくさんあり、ロンドンやパリには日本のデザイナーがプロデュースする店もある次第だ。何が言いたいかと言うと、文化というものはある地域で作られ、別の場所に伝わり思わぬ進化をすることがあるし、そういったものを我々は無意識のうちに着たり使ったりしているということ。こと陶芸においても、日本で作られた天目や青磁が中国人に人気だったり、欧州に凄く良い楽茶碗を作る陶芸家がいたりと、まさに様々な逆転現象が起こる時代。焼き物に置いてはもちろん素材や技術継承という部分で地の利というものは存在するが、ただ「こうでなければ」という足枷も同時に存在し、進化という意味において昔のような圧倒的なアドバンテージは無いように思える。
松崎健先生が命名した「遊心窯」という窯名が表す通り、足枷のない益子で美濃焼や信楽焼を自由に遊ぶように造り続け生まれたお二人の作品。金志埜をマスターピースとして、これからも我々を驚かせるような作品を、どんどん世に出していってほしい。二人の挑戦は続く。